「アラフォーに元気を与えたかった。やればできるんだぞってね」。大晦日、石井慧との柔道金メダリスト対決を制した吉田秀彦は語気を強めて言った。
 40歳と23歳。メタボなお腹とハガネのような肉体。しかも40歳のファイターは下り坂で引退間近。これからスター街道を歩むであろうエリートにとっては格好の“かませ犬”だ。

 しかし、勝ったのはメタボな40歳だった。そして、勝敗を分けたのは「経験の差」だった。吉田の証言をもとに、それを具体的に検証してみたい。
「初回に右フックでダウンを奪った。あれで明らかに石井の顔つきがかわった」。具体的にどう変わったのか? 「びびったような表情になった。前に出てこなくなったでしょ。だから僕も無理には行かなかった」
 ダウンを奪った右フックは手の込んだものだった。一瞬、重心を落とし、左でボディを打つと見せかけておいて右のオーバーハンドを叩きつけた。この日のために練習を重ねた、とっておきのフェイント攻撃だ。

 だが、この会心の一撃はベテランに強烈なダメージをもたらせた。「あれで右の拳が壊れてしまったんですよ」。つまり、それ以降は「無理には行かなかった」というより「無理には行けなくなって」しまったのだ。
 さて、それを悟られないようにするためにベテランはどうしたか。表情を消し、痛みをこらえて右を打ち続けた。「これも駆け引き。こっちが“マズイな”という顔をしたら、相手は一気にきますよ」

 実はこの試合で吉田が痛めたのは右の拳だけではなかった。2回には左足の太ももも負傷してしまった。「ストレートを打とうと強く踏ん張った瞬間、足がブチッと鳴った。肉離れのような状態ですよ」。相手に気づかれないように左太もも裏の状態を左手でチェックし、慎重に間合いを取った。インターバルのコーナーでは応急措置として左足に水をかけさせた。用心深く前を窺うと、石井の視線は届いていなかった。

 2回の終盤には股間を蹴られるアクシデントも。「脂汗が出て下腹部に力が入らなくなった。でも、お客さんのことを考えれば、さすがにあそこではやめられないでしょう」。その何気ない物言いにファイターである前に人間としての奥行きを感じたのは私だけではあるまい。ベテランは勝つべくして勝ったと言える。

<この原稿は10年1月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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