朝起きて歯を磨き、口をゆすぐ。「このままゴックンと飲んでしまったら、どれだけ楽だろう」。WBC世界バンタム級王者・長谷川穂積はいつも考える。
 街を歩いていると無意識のうちにジュースの自動販売機に目が釘付けになる。傍らの泰子夫人から「あなた、また見とん?」と肩を叩かれ、ハッと我に返る。こんな生活を、もう随分長い間続けてきた。
 減量は苦しくなる一方だ。最近の防衛戦での減量は12〜13キロが相場。減量の前と後では顔が全く違って見える。バンタム級で18歳でデビューし、29歳の今もバンタム級。筋肉の量も骨格の大きさもデビュー当時の比ではない。それでもバンタム級にこだわる理由は何か。

「僕の大好きな『あしたのジョー』の矢吹丈がこのクラスということもあるのですが、誰か具志堅用高さんの記録(13回連続防衛)を塗り替えないといけない。永遠の記録っておもしろくないでしょう」

 勝てば具志堅の持つ日本記録に、あと2つと迫る。30日に戦う11回目の防衛戦の相手はメキシコのフェルナンド・モンティエル(現WBO世界バンタム級王者)。3階級制覇の実力者ということもあって、今回は通常より2週間ほど早い1カ月半前から減量に取り組んだ。

 一時は階級を上げるかどうかで随分、悩んだ。「無理な減量をして、しょうもない試合をしたり、負けたりするくらいならベストなウエイトでいい試合をしたい」。かつては、そう語っていた。3階級制覇という、もうひとつの夢をいったん封印してまでバンタム級に残る選択をした以上、減量苦を言い訳にはできない。長谷川は自らの手で退路の橋を断ち切った。

 自分に勝たなければ相手には勝てない。そこらへんの4回戦ボーイでも口にしそうな手垢のついたセリフが、長谷川の口から発せられると、ひどく新鮮に感じられる。「僕にとっては毎日が戦いです。朝起きる。今日は走りたくないとか距離を短くしようとかズルイことを考える自分がいる。しかし、それをクリアしなければ先には進めない。これだけやって負けたんなら、相手が強かったと思って諦めるしかない。僕は相手を素直に称えられる自分をつくるために、あえて苦しい練習を自らに課している」

 平成の名王者、一世一代の大勝負。こんなに胸がそわそわするのは、いつ以来のことか……。

<この原稿は10年4月28日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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