あれはいまから11年も前のことだ。その日はプロ野球のドラフト会議が行なわれていた。
 1995年11月22日、東京・渋谷(当時)の日本サッカー協会では、まるでドラフト会議のお株を奪うような“大逆転指名”が行われた。
 協会幹部会はフランスW杯を目指す代表監督に、強化委員会が第一候補に推すヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)のネルシーニョ監督を退けて、加茂周監督に続投要請することを決定したのである。ネルシーニョとは、すでに条件交渉にまで入っていたため、この決定には誰もが驚きを隠せなかった。
 日本サッカー協会で行なわれた記者会見には協会側から長沼健会長、川淵三郎副会長(Jリーグチェアマン)、岡野俊一郎副会長、小倉純二専務理事、重松良典専務理事代行の5人の幹部がすべて出席した。
「全員一致で加茂周監督の続投を決定した」
 幹部会を代表して、こう発言したのは長沼健会長だった。
 続けて、こう言った。
「すべてを継続したほうがフランスに行ける可能性が高い」
 このとき、協会幹部会と強化委員会(加藤久委員長)は激しく対立していた。代表監督は誰が決めるのか。これについて長沼会長は「強化委員会は意見を具申するだけで決定権はない」と明言し、加茂監督続投の正当性を強調した。
 ところが、それから数時間後、私はもう一方の当事者から正反対の意見を聞かされることになる。
「この問題は経緯を振り返れば振り返るほど、どうしてこうなるか理解できない」
 そう前置きしたうえで森下源基読売サッカークラブ(現日本テレビフットボールクラブ)社長は交渉の始まりから決裂にいたる経緯を次のように明かしたのだ。
「(交渉に至る)ルートは二つあった。最初は加藤久氏より“強化委員会が幹部会に上げた報告では、代表監督候補の第1位はネルシーニョである”と。それから時間的経緯はあるが、川淵さんから“4人が候補に挙っているが筆頭はネルシーニョ。受けていただく意思はあるか?”と尋ねられた。ここで、この問題は始まったわけです」
 つまりネルシーニョは2階に上げられてハシゴを外されたわけだ。幹部会はネルシーニョとの交渉が不成立に終わった理由について「金銭面のズレ」をあげたが、記者会見でネルシーニョは「“2年契約で3億円しか出せない”と協会が言うから“それでやる”と自分は言った。具体的にいえば月10万ドルで、予選をクリアして本戦に出場できたら100万ドルをボーナスのかたちでもらうという話だった」と交渉の裏側まで暴露して反論した。
 収まらないのは加藤久委員長だ。
「決定までの手続き、経過、理由について理解できないことが多すぎる。Jリーグはプロになったが、今回の決め方はあまりにもアマチュア的だ」と怒りの矛先を幹部会に向けた。

 それにしてもなぜかくも幹部会と強化委員会は対立したのか。強化委員の人選は理事会の承認を得て決まるものであり、加藤氏の強化委員長就任の背景には前委員長の強い推薦があった。
 オフト、ファルカン、そして加茂周と続く3代の代表監督はいずれも川淵前強化委員長の強いリーダーシップによって誕生した。ところが川淵氏からバトンを引き継いだ加藤氏には決定権がないばかりか選定権もあやふやだった。

 すなわち協会は強化委員会の責任と権限について、明確な基準を示さないままズルズルとここまでやってきた。そこを曖昧な状態にしておけば、責任感の強い人間はどんどん自らの仕事の領域を広げていく。加藤氏は前任の川淵氏が行っていたことは自らも行えると判断し、代表監督の選定にまで手を付けた。これが加茂氏支持の幹部会の逆鱗に触れた。つまり権力の虎の尾を踏んでしまったわけである。
 17歳も年下で、当時まだ監督経験のなかった加藤氏に「代表監督不適格」の烙印を押された加茂氏にとっても、これは愉快な話ではない。
「個人的な見解だが、強化委には情報収集、分析には期待しているが、トレーニング方法のアドバイスは必要ない。それは私の考えでやる」
 続投するにあたりこう希望を述べ、それはすんなりと受け入れられた。かくして代表監督やチームの能力をチェックし、その査定、評価まで行っていた強化委員会は姿を消し、98年の7月には代表監督やチームをサポートするだけの技術委員会へと看板を掛け替えたのである。

 ここで問題なのは代表チームの現在地が把握できなくなってしまったことである。技術委員会にはチェックや査定、評価に関する権限がないため、どうしても馴れ合いになってしまう。馴れ合いと言って悪ければ、従順なインサイダーとでも言うべきか。
 いうまでもなく、委員会の突出は好ましいものではない。先述した加藤氏と加茂氏の反目は、委員会と代表チームが対立する不幸な姿だった。
 しかし、対立のリスクを回避するために代表チームから評価や査定、チェックの機能を奪い、サポートのみに徹する組織に衣替えさせたことでいい意味での緊張感まで失われてしまったのだ。
 ある技術委員会の関係者は、「ジーコ・ジャパンの弱点やジーコの采配の問題点については大会前からわかっていたが、それを具申する方法がなかった。また協会からそれを求められることもなかった。一枚岩といえば聞こえはいいが、オール与党になってしまって建設的な提案ができなかった反省は残る」と言って唇を嚙んだ。

 川淵−ジーコのホットラインは、かつてないほど風通しがよく、ミッションも明確だった。しかし影の部分として、代表チームや監督への批判に寛容ではないという面も見受けられた。メディアも含めて、いつの間にかジーコ・ジャパンを取り巻く環境は“大政翼賛会”と化し、根拠なき楽観論だけがひとり歩きし始めた。
 私がW杯前に出演したテレビ番組でアナウンサーとこんな会話をした。
「二宮さん、ジーコ・ジャパンが決勝トーナメントに進出する可能性はどのくらいだと思いますか?」
「ブラジルは当確だから3分の1、つまり33%あるかないか。クロアチア、オーストラリア、日本は横一線だと思うよ」
「冷静に考えたらそうですよね。日本が確実に勝ち点3を取れそうな相手なんていないですもんね」
 ところがそのアナウンサー、番組が始まると、日本代表サポーターに早変わりし、大声を張り上げてこう言った。
「ジーコ・ジャパンの決勝トーナメント進出の確率は80%。ブラジルにだって勝てるかもしれません」
 さすがにバツが悪かったのか番組終了後、私の耳元でこう囁いた。
「上からの命令で“煽れ”と言われているんですよ。きっと太平洋戦争のときもこうだったんでしょうね」
「大本営発表?」
「いや何となく気持ちがわかりますよ。誰だって非国民にはなりたくないですもんね」
 よもやサッカーの世界に“特高警察”はいないはずだが、メディアがまき散らした“翼賛報道”の罪もけっして小さいとは言えない。自戒を込めて付記しておく。

<この原稿は2006年9月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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