さて日本代表の再建を託されたイビチャ・オシムとはいかなる人物なのか。
 彼は1978年、母国ボスニア・ヘルツェゴビナで指導者人生をスタートさせた。86年には旧ユーゴスラビア代表監督に就任。90年イタリア大会では同国をベスト8に導いている。
 ジェフの前に監督を務めたシュトルム・グラーツ(オーストリア)でも欧州チャンピオンズリーグに3度出場するなど、その指導力は定評がある。
 03年1月、ジェフの監督に就任すると、午前10時と午後6時の2部で走りこみ中心のフィジカル・トレーニングを選手たちに課した。練習中は歩くことさえ許さず、ときに45分のゲーム形式の練習を4本も強行した。こうしたスパルタ指導が実を結び、05年11月には、かつて“Jリーグのお荷物”と揶揄されたチームがナビスコカップ優勝を果たした。
「走らない選手はボールを受けたくないからだ。それは隠れているのと同じだ。気持ちで負けているのと一緒。走るとはそういうことだ」
 こうした負けに慣れたジェフの選手たちに“走る”ことを通じて戦う姿勢を植えつけた。走ることこそがオシムイズムの原点なのだ。
 有名な“オシム語録”の中には、こういうものがある。
「レーニンは『勉強して、勉強して、勉強しろ』と言った。私は選手たちに『走って、走って、走れ』と言っている」
「ライオンに追われたウサギが逃げ出すときに肉離れを起こしますか? 要は準備が足りないのです」

 ドイツW杯直後のコメントも辛辣ではあるが正鵠を射抜いていた。
「日本人は自分たちがトップの仲間だと勘違いしている。できるサッカーとやろうとしているサッカーのギャップがあり過ぎる」
「身長は伸ばせないし、補えない部分はある。それなら違う方法でステップを踏むのが正しいこと。背の高い選手を揃えても、うまくいくとは限らない」
 言葉の端々に前任のジーコへの批判がにじんでいた。
 3試合でわずか勝ち点1という惨敗を喫しながらサッカー関係者の中にはいまだに「技術的には負けていなかった」「世界との差は縮まっている」と現実逃避型のコメントをする者が少なくない。
 オシムの言う「勘違い」がサッカー界全体に蔓延しているのだ。
 そこで私がオシムに期待するのは代表選手たちとの“摩擦”である。火が出るほど激しくやりあって欲しい。
「走れ、走れってそれだけじゃサッカーはできないよ」。
 きっとこう口にする者が出てくるはず。それはオシムにとって、むしろ望むところだろう。互いが互いを理解するうえで思想的な対立は避けて通れない。
 オシムはこうも言っている。
「古い井戸に水が残っているのに、新しい井戸を掘るのはどうか。古いほうも使いながらやっていきたい」
「ただ外国に行けばいいってもんじゃない。日本にマッチした強化を考えるべきだ」
 井戸水のたとえはわかりやすい。若返りは必要だが、ベテラン選手も自らの方針に従うのなら使う用意があるというメッセージだ。要するに新旧の競争を激化させようということだろう。
 後段のコメントは海外組を重視したジーコのチーム作りを根底から覆すものだ。一口に海外組といっても、ヨーロッパでレギュラーの座を確保していない選手はコンディションの維持が大変でゲーム勘も鈍っていることが多い。さらには海外組を優遇することで国内組との溝を深めることになる。それは得策ではないとオシムは判断したのだろう。
 来日して3年。あきらかにオシムの提案はジーコ・ジャパンを反面教師にしているような面が見受けられる。皮肉な言い方だが、反省材料として再建の約に立つなら、ジーコが指揮を執った4年間は無駄ではなかったということになる。

 しかし表紙を替えれば中身も変わるほどサッカーは甘くない。ドイツW杯であらためて浮き彫りになったFWの決定力不足、攻撃においてリスクを冒そうとしない安全重視のマインド、球際に弱い守りなどは指揮官がジーコからオシムに替わったからといって一朝一夕のうちに解決する性質の問題ではない。
 最近のメディアのトレンドとして、名将オシムの代表監督就任で日本代表にはバラ色の未来が待ち受けているとでも言いたげな記事が氾濫している。これは「規律」重視のフィリップ・トルシエから「自由」を標榜するジーコに政権が替わった4年前の現象とウリふたつである。あのとき、メディアはあたかもジーコを救世主のように迎えたが、ドイツで「世界を驚かす」公約は守られなかった。
 数々の修羅場をくぐり抜けてきた65歳の老将はこんなことも言っている。
「世界王者になりたいのなら、私ではなく他の監督を探すべきだ。日本代表が世界王者になれる保証などどこにもない」
 はたして、この言葉は何を意味するのか。
 いま現在、この国においてオシムは考えられる最高の指導者である。ただし、「勝負師」であるかどうか。その答えはしばらく留保しておく。

<この原稿は2006年9月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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