6日前、67歳で肺炎により死去したプロレスラーの星野勘太郎は“タッグの名手”として知られた。自分が光るのではなく、相手を光らせる。その術に長けていた。あくまでも私見だが、引き立て役をやらせたら一に吉村道明、二に星野勘太郎、三、四がなくて五にアニマル浜口か。
 忘れられないのは1970年、アントニオ猪木のパートナーで出場し、見事に優勝を飾った第1回NWAタッグ・リーグ戦。猪木と星野は“これぞ阿吽の呼吸”とでもいうべき絶妙なタッチワークでニック・ボックウィンクル、ジョニー・クイン組を翻弄した。

 星野の身長は公称170センチだが、実際はそれよりも4、5センチ低く見えた。ボクシング経験者らしく、接近戦になるとベアナックルのままブローを見舞った。だが、如何せん体が小さく軽量のため、すぐ相手に捕まってしまう。ほうほうの体で逃げ出し、コーナーで待つ猪木に転がりながら救いのタッチを求める。
 ここで我らが猪木の登場だ。客席に向かって見得を切り、あごを突き出す独特のポーズで相手を威嚇する。敵方も一筋縄ではいかない。たとえばニック。猪木に媚びるようなふりをし、一瞬のスキをついて怪力クインの待つコーナーに“連行”する。窮地に追い込まれた猪木を見て、顔を真っ赤にして歯ぎしりする星野。昭和プロレスの名シーンのひとつである。

 ちなみにニックは私の大好きなレスラーのひとりだ。クインとのコンビも良かったがレイ・スティーブンスとのコンビはタッグの白眉だった。あぁ、こんな言葉まで思い出してしまった。「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る」。カーニバルレスラーだった父ウォーレンの教えだ。プロレスの奥深さを、これ以上に言い当てた名言は他にあるまい。

 星野は“千の顔を持つ男”ミル・マスカラスの日本デビュー戦の相手役も務めさせられた。日本初上陸でマスカラスがみせたドロップキックの嵐。その都度、受け身を取り、立ちあがった男がいたからこそ、マスカラスはスポットライトに映えたのだ。私たちはそのことを忘れてはいけない。
 昭和プロレスの残照が次々と消えゆくなか、個性的な灯りが、またひとつ消えた。合掌。

<この原稿は10年12月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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