元ヤクルトの鈴木康二朗といえば、王貞治からハンク・アーロンの世界記録を抜く756号を“被弾”した投手として知られている。
 その鈴木が井本隆とのトレードで1983年、近鉄に移籍した。近鉄には鈴木啓示という大エースがいた。トレードのニュースに接し、鈴木啓示は何と言ったか。「このチームに鈴木はワシひとりでいい。鈴木康二朗君は、できたら別の登録名でやってくれんかな」
 これは、鈴木啓示がいかにワンマンであったかということを示すエピソードだ。逆に言えば、このプライドの高さと唯我独尊こそが孤高のサウスポーを317勝投手に押し上げたのである。
 かつてエースと呼ばれた男たちは、どこか理不尽な匂いを身にまとっていた。過剰なまでの自尊心がマウンドを支えていた。

 先頃、東北楽天の佐藤義則投手コーチとヒザを交えて、じっくり話す機会があった。佐藤が入団した頃の阪急のエースといえば山田久志だ。山田は75年から12年連続で開幕投手を務めていた。山田には独特の美学があった。「開幕戦の第1球は常にストレートと決めていた。キャッチャーミットが“バチン”と鳴り、アンパイアが右手を上げる。ここから僕の1年が始まったんです。だから初球だけはバッターには振ってもらいたくなかった」

 その山田から開幕投手の座を奪ったのが佐藤である。87年のことだ。上田利治監督(当時)は「投手陣も世代交代が必要」と考えていたようだ。
 これは佐藤にとってはありがた迷惑だった。いわば聖域を冒すようなものだ。本音の部分では断りたかったが、監督命令とあってはそうはいかない。渋々、先発したが、5回6失点。「あれから山田さん、しばらくの間、僕に口をきいてくれませんでしたよ」

 楽天ではマー君こと田中将大が開幕投手に名乗りをあげた。つまり岩隈久志の5年連続をストップするという宣言である。
 佐藤は「その意気や良し」とヒザを打つ一方で、エースのプライドにも思いをはせる。「来年、岩隈はFAでいなくなるかもしれない。でも、岩隈の気持ちも尊重しないといけないし……。星野(仙一)監督には“本人の意向は僕が聞きますが、開幕投手は直接、伝えてください”と話しています」。決断の時は刻々と迫っている。

<この原稿は11年2月23日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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