横浜高校の渡辺元智といえば、春夏含めて5度の甲子園優勝を誇る高校球界の名監督である。1968年に同校の監督に就任すると、今夏の選手権を含めて25度の甲子園出場に導き、積み上げた勝利数は歴代4位の47にものぼる。渡辺は約半世紀にも及ぶ指導者生活のなかで、“スパルタ”から“対話型”へと、時代に合った指導法を柔軟に取り入れた。そして、松坂大輔(ボストン・レッドソックス)、成瀬善久(千葉ロッテ)、涌井秀章(埼玉西武)など球界を代表するプロ選手たちを輩出したのだ。
 名指導者の教育論を、20年前の原稿で辿ってみよう。
<この原稿は1991年11月20日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 11月の晴れた空に、乾いた球音がこだまする。横浜市金沢区にある横浜高校グラウンド。ノックバットを持つコーチの背中越しに、厳しい視線がグラウンドに注ぎ込んでいる。
 渡辺元(はじめ=当時)、47歳。浅黒い表情をほころばせながら、私に向かって小さな声でつぶやいた。
「ほら、あの1年生、あの子、中学時代までは番長だったんですよ。ウチで野球をやりたいというので入れたんですけど、なかなか真面目にやってます。エリートばかり集めたって面白くない。落ちこぼれを拾ってこそ教育というもんじゃないでしょうか……」
 私が目で相槌を打つと、渡辺はほんの少し語気を強めてこう続けた。
「はっきり言って、学校教育なんかデタラメでもいいんです。教育の成果は社会に出て初めて判断されるものでしょう。ちょっと悪いことをしたといって、すぐに部をやめさせたり、連帯責任をとらせるようなやり方、僕ははっきり言って好きじゃないですね」

 1980年、夏の甲子園。愛甲(ロッテ)を擁する横浜高校は、決勝で東京の早実を破り全国制覇をとげる。この決勝戦で6回からエースの愛甲をリリーフし、栄冠の立役者となったのが川戸という控えピッチャーだった。
 愛甲と同じサウスポーの川戸は入学以来ずっと愛甲の影武者的存在だった。来る日も来る日もグチ1つこぼさずシート打撃に登板し続けた。いわば模範的な高校球児だった。
 その川戸が、ある日、意を決したような表情をして渡辺の前に現れ、強い口調で言った。
「僕はもう野球をやめます。いくらやってもチャンスがないのですから」
 渡辺は傷心の球児の肩に手をやり、「甲子園に行っても絶対に投げるチャンスはある。横浜には2人のエースがいて初めて全国制覇できるんだ」と言って慰めた。その川戸が甲子園の、しかも決勝のマウンドにいる。渡辺はそれだけでも深い感慨に浸ることができた。
「6回に“川戸で行くよ”と愛甲に言った時、彼は自分の使っていたグラブを川戸に差しだしたんです。チームの絆が結ばれた瞬間として、これは忘れられません」
 1年生から甲子園に出場した愛甲は、地元ではちょっとしたヒーローだった。しかし多感な年頃ゆえ、学校や他の野球部員との摩擦も少なくなかった。そして、1年生の冬には、昔の仲間と付き合い始め、合宿を脱け出してしまう。彼が戻ってきたのは2年になってから。それまでは気の休まる日はなかった、と渡辺は言う。
「あれは彼が1年生の冬でした。逗子の警察署長から“愛甲君を今預かってるんですが……”という電話がかかってきた。それを学校に知らせたら停学は確実だから、夜こっそり引き取りに行ったんです。でも、その愛甲も今はロッテの中心選手に成長し、幸せな家庭をつくっている。あの時点で野球を取り上げていたら、おそらく今の彼はなかったでしょうね」

 横浜高校を卒業後、地元の神奈川大学に進むが右肩を痛めて野球を断念、千葉の親戚が経営するブルドーザーの修理工場で働いていた渡辺に「ウチの野球部を手伝ってくれないか」との誘いがきたのは、19歳の冬だった。
「自分の生きる道はもう野球しかない」との思いで、渡辺はこの誘いを一も二もなく引き受ける。
 若さゆえ、渡辺は血気にはやった。殴る蹴るの鉄拳制裁は日常茶飯事。選手の手に包帯でバットを結わえ、貧血でブッ倒れるまで素振りをさせた。
「相手より1時間でも多く練習をさせればそれだけうまくなる」
 20歳そこそこの渡辺は、そう信じて疑わなかった。
 当時の横浜高校は、地元の中学の不良たちが何人も集まるということで、かなり知られていた。
「もう時効だから話せるんですけどね」と前置きして、渡辺が話す。
「やたらカネ回りのいいマネージャーがいておかしいと思っていると、そのマネージャー、勝手に僕の印鑑を作って選手たちから部費を徴収してたんです。その他にも部室のグラブを仲間に売りつけたり、相手のチームに殴りかかっていくようなとんでもないのが、たくさんいましたね」
 その“横浜高校”を見る世間の目が一変したのは1973年のセンバツだった。2年生エース永川(元ヤクルト・故人)を擁するチームは決勝で名門の広島商を破り、初の全国制覇を達成したのである。渡辺が横浜の繁華街を歩くと「カントク、実はオレも“横浜高校”の出身なんですよ」と見ず知らずのOBたちが湧き出るように集まってきては散っていったという。それまでのOBたちの鬱屈した心情を垣間みるようで興味深い。
「あの、かつての横浜高校から比べると、生徒の質は確かによくなりました。でも、その頃の方がパワーはありました。今となっては、むしろ日々、戦争だった昔の方が懐かしいという気もしますね」

 最近、とくに思う。高校野球はマスコミや教育現場にいる大人たちのエゴによって歪められ、間違った方向に進んでいるのではないかと。例えば、高野連がすぐに持ち出す「教育の一環」ということでいえば、ちょっとタバコを吸ったり酒を飲んだりするような生徒を排除し、連帯責任まで押しつけるようなやり方が望ましいとはとても思えない。むしろ、少々手のかかる生徒に「オマエら勉強が嫌いだったら野球くらいは一生懸命やれよ」と励ます方が、余程血の通った教育といえるのではないだろうか。
「ワルを切り捨てるのが教育だとは思わない。僕たち教師がそういう生徒たちから何か教わることだってたくさんあるんですから」
 暮れなずむグラウンドで、渡辺は遠くの生徒を見やりながら、そう話した。
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