主に広背筋のことをボクシングの世界では「ヒットマッスル」と呼ぶ。パンチ力の源とされている。
「ヒットマン」の異名を取ったトーマス・ハーンズ(米国・元5階級王者)にインタビューしたのは、今から21年前のことだ。胸板は薄かったが、脇から背中にかけての筋肉の盛り上がりは尋常ではなかった。
 ハーンズに限らず過去の強打者で、プロレスラーのようなたくましい筋肉を胸に蓄えていた者は、あまりいない。パンチを矢にたとえるなら、広背筋は弓の弦の部分にあたる。そう考えれば大胸筋より広背筋を鍛える意味が理解できる。
 日本人で初めて重量級(スーパーウェルター級)を制した輪島功一も素晴らしい広背筋を誇っていた。周知のように輪島はデビュー前、飯場に寝泊りし、土木作業員として働いていた。ツルハシを振り下ろし、スコップで土砂をすくい上げる日々。「これがボクシングに生きた」と輪島は語っていた。
「まずスコップだけど、土砂をすくい上げることで“ねじれの筋肉”がついた。オレの場合、リーチがないから低い姿勢のまま相手の懐に入っていかなきゃならない。低い姿勢を保つにはお腹の“ねじれの筋肉”が必要なんだよ。ツルハシもよかったな。パンチを打つ筋肉がこれによって鍛えられた。それに集中力も身についたな。少しでも気を抜いたらケガに結びつく。結果として全てボクシングに通じていたんだよ」

 過日、大阪でWBC世界ミニマム級王者の井岡一翔に会った。アウトボクシングもインファイトも一級品。初挑戦でタイのオーレドン・シッサマーチャイを仕留めた左のボディブローはタイミングといい角度といい究極の一撃だった。
 これまで、いったいどんなトレーニングを積んできたのか。プロモーターでもある父・一法は言った。「高校1年からボクシングの練習が終わった後、ハンマー振りを必ず千回やらせました。3キロのハンマーを右と左へ交互に振り下ろすのです。一翔のヒットマッスルはこれで鍛えられたと思っています」。一法に促されて私もハンマーを振ると足元が揺れた。

 ボクシング界には「ジャブは世界を制する」という格言がある。それにならえば「広背筋は世界を仕留める」――。

<この原稿は11年9月7日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから