ところが現在の日本相撲協会は、いくら客足が遠のいても何も打たず、ひたすら前例を踏襲するのが「伝統を守る」ことだと勘違いしている。そして、「これまで潰れなかったのだから今後も潰れない」と根拠のない信仰にすがっているのだ。
<この原稿は2004年『勝者の組織改革』(PHP新書)に掲載されたものです>

 なかには、「天下のNHKがついているのだから潰れるわけがない」などと訳のわからない理由をあげて泰然としている人間もいるのだからお話にならない。第一、NHKにそんな義務はない。大相撲は国技であり、一定の支持を得ているから放送しているのであって、国民の大相撲離れが顕著になれば、放送を中止する可能性だってゼロとはいえないだろう。視聴率が仮に3パーセントか5パーセントになっても放送しつづけていれば、逆に「皆様のNHK」としての態度が問われる。民意に敏感なNHKがそこまで鈍感なはずがない。

 しかし、北の湖理事長が雑誌のインタビュー記事で、「自分の仕事は守ることだと思っている」などと語っているのを見ると、それもあながちない話ではないような気がしてくる。いったい、何を「守る」と言っているのかよくわからない。若貴時代にピークを迎えたテレビ視聴率が半分ぐらいまで落ち込み、満員御礼もほとんど出ないこの現状を「守る」とでもいうのだろうか。かろうじて朝青龍というトラブルメーカーの悪役人気と。高見盛のパフォーマンスでなんとかもってはいるものの、彼らが10年も20年も土俵に立ちつづけるわけではないのである。
 にもかかわらず、北の湖理事長をはじめとする協会は、大相撲人気の復活に何が必要かと問われると、「土俵の充実」という言葉を十年一日のごとく繰り返すだけだ。「力士たちが迫力のあるおもしろい相撲を取っていれば人気は自然と盛り上がる」というわけで、要するに土俵という「現場」にすべてを任せているだけなのである。
 一見すると正論のように思えるが、これは不作為の言い訳にすぎない。現場を支えるフロントとしての責任を放棄していると言われても仕方ないだろう。

 たしかに、いまの相撲界は「現場」の力士たちにも問題がないわけではない。たとえば、朝青龍があれほど横綱としての「品格」を批判されながらも傍若無人に振る舞うことができるのも、あの横綱の鼻っ柱を折ることのできる強い力士がいないことが一つの要因だ。
 彼の品格を鍛え直したいなら、強力なライバルの出現がいちばんの早道だと私は思っている。土俵での「独走」が止まれば、土俵外での「暴走」も止まるにちがいない。なぜなら、土俵での無類の強さこそが彼にとっての唯一かつ最大のレゾン・デートル(存在理由)だからだ。自分より強い者がいないから、「品格ない」と批判されても「文句あるか」と強気な姿勢でいられるのである。
 したがって、彼の起こした数々の騒動は、単に朝青龍個人だけの問題ではなく、「土俵の充実」を果たせない力士たちのふがいなさを反映したものだといえるだろう。ここで大関以下の全力士が奮起して死ぬ気で戦い、親方衆が朝青龍を倒せる力士を育てれば、大相撲人気も盛り上がるはずだ。そういう責任が現場にあることは否定しない。
 しかし、である。現場の力士や親方衆に「土俵の充実」を図る責任がある一方、フロントとしての協会には、現場が「土俵の充実」を目指せる環境を整える責任がある。それが協会の仕事であって、頑なに「伝統」を死守するために「何もしない」ことが彼らの仕事なのでは断じてない。

 力士が土俵上でおもしろい相撲を取るためにできることは、いくらでもある。
 たとえば、テレビ視聴率や観客動員数を上げる工夫をするのもその一つだ。協会は「相撲がおもしろければ客は増える」というが、これは逆もまた真なのであって、スポーツには「観客が増えるとプレーの質が高まる」という一面がある。
 サッカーがそうだった。企業の社員しか応援に駆けつけず、スタンドに閑古鳥が鳴いていた日本リーグ時代は、試合中にダラダラ歩いている選手が大勢いたのものだ。スタンドの顔見知りから「おまえ、ゆうべ飲みすぎただろ」と声をかけられた選手が、頭をかきながらヘラヘラ笑っている光景を目の当たりにしたことがある。
 しかしJリーグが始まると、そんな選手たちが見違えるようなパフォーマンスを見せるようになった。アマチュアが身分だけプロになったからといって急にうまくなるわけがないのだが、意識の持ち方次第でプレーの質は変わるということだろう。スタンドを埋める観客の視線が、選手の意識を変えたのである。何万人もの観客の前で、だらしないプレーはできない。試合の前夜に深酒をするような者も(いなくなったとは言わないが)大幅に減った。選手がコンディション調整をまじめにやるだけでも、競技レベルは格段に上がるのだ。

 ならば大相撲も、力士に「いい相撲を取れ」と下駄を預けるだけでなく、できるかぎりファンを集める努力をすべきだろう。
 たとえば以前、元横綱の北の富士さんが、場内にオーロラビジョンを設置して取組を映し出すことを提案したことがあった。そういうファンサービスは積極的に導入すべきだ。強大なスクリーンがあれば、土俵から遠い席でも取組の様子がわかるし、テレビ観戦のようにVTRで終わった取組を確認することもできる。相撲は一瞬で勝負がつくことが多いので、生で観ていると何が起きたのかわからないことが多いものだ。
 残念ながら、この提案は「前例がない」という理由で却下されてしまったが、前述したとおり、大相撲は前例を破ることで発展してきたことを忘れてはいけない。観客のために屋根の柱を取り払うことができるなら、オーロラビジョンの設置もできない話ではないだろう。

 また、相撲をおもしろくしたいなら、ルールの変更も検討されていいはずだ。たとえば、いまの柔道が昔よりおもしろくなったのは、攻撃しないと「注意」を取られてポイントを失うルールにしたことで、以前よりも選手が積極的に動くようになったからだ。サッカーでも、ゴールキーパーへのバックパスを禁止することでスリルが増したことがある。
 相撲の場合は、力士の大型化に併せて土俵を広げるのも一案だろう。現行のサイズだと、小錦や曙のような巨漢力士が突っ張りを2発か3発食らわせただけで勝負がついてしまって、観ていておもしろくない。迫力があるとはいえ、やはりきちんと四つに組んだ状態でめまぐるしい攻防を展開するのが相撲の醍醐味だ。そういう相撲を取るには、いまの土俵は狭すぎる。
 もっとも、これには反対意見もある。私はこの「土俵拡大案」を、小さな体で小錦や曙と五分に渡り合った元横綱・若乃花の花田勝氏にぶつけてみたことがあるのだが、「土俵が広くなると逆に小兵力士はもっと不利になる」というのだ。土俵が狭ければ、相手のバランスを崩してから一瞬の隙を突いて投げを打つこともできるが、土俵が広いと巨漢力士にジワジワと攻められてしまい、小兵が何をやっても通じなくなってしまうという話だった。なるほど、こういうことは実際に土俵で戦ってみないとわからないものである。
 いずれにしろ、土俵のサイズが相撲の内容に大きな影響を与えることは確かなようだ。ルール次第で、相撲にはまだまだおもしろくなる余地がある。その可能性に目を向けず、ただ前例に従って不作為を続けていたのでは、何も変わらないのである。

 さらに、「土俵の充実」のためには、力士がコンディションを調整しやすい環境を整えることも重要な仕事だろう。故障を抱えていては迫力のある相撲は取れないし、人気力士の相次ぐ休場はファンの興味を大いに削ぐものだ。
 故障が多いことを、「最近の若者は体が弱いし根性もない」などと力士の責任にする者もいるが、現役時代さんざん怪我に泣かされた花田勝氏に再び登場していただくと、それは一面的な見方にすぎないことになる。
「相撲はほかのスポーツと違って、オフシーズンがないので、怪我を治す時間がありません。本場所は年6回ですから、365日のうち相撲を取るのはたった90日間じゃないかと思われるかもしれませんが、それ以外にも花相撲や巡業があって、力士は体を休める時間がまったくないのです。はっきりいって、現行の年6場所のままでは、休場力士の数は一向に減らないと思います」
 花田氏は、私のインタビューに対してそんなふうに答えてくれたものだ。本場所だけではなく、巡業も力士の体には相当な負担がかかるという。巡業先ではすべて勧進元の意向に従わなければならないため、どんなに疲れていても興行には朝から参加しなければならないし、写真撮影やサインも断れない。移動も過酷なもので、花田氏は電車で11時間揺られたことがあったそうだ。体の大きな力士がそんなに長く小さな座席に座っていたら、腰や膝はそれだけでパンクしてしまうだろう。
 それでも協会は財源確保のために巡業をやめられない。そのせいでコンディションを崩している力士たちに向かって、「体力がない」だの「根性が足りない」だのと言うのは、あまりにも酷な話ではないか。「土俵の充実」というなら、力士が気力・体力を充実させられるような環境づくりをすべきである。それが管理者の責任だ。

 それこそ年6場所制の見直しを議論するのもいいだろう。そもそも年6場所になったのは昭和30年代のことで、相撲の歴史から見れば決して古い話ではない。江戸時代は年1場所しかなかったし、6場所になる前は春夏秋冬の4場所制が長く続いていた。「伝統を守る」というなら、本場所を減らすのも一つの道なのである。野球やサッカーのファンがオフシーズンに飢餓感を募らせながら開幕を待つのと同じで、本場所が少なければ大相撲のありがたみが増して人気が高まるかもしれない。
 それでは間が開きすぎるというなら、本場所とは別のトーナメント大会を新設してもいい。コンディションの悪い力士が出場しなくても、本場所ほど人気面のダメージはないだろう。欧州サッカーにはリーグ戦とは別のカップ戦がいくつもあり、それが控え選手にチャンスを与える場にもなっている。大相撲のトーナメントも、たとえばプロとアマの区別をつかないサッカーの天皇杯のように、幕内力士と十両力士が戦うようなかたちにすれば、本場所とは違う魅力が出てくるのではないだろうか。

 新味を出したければ、ふだんは個人戦の相撲に団体戦を持ち込むアイデアもある。部屋別の対抗戦を実施するのだ。たとえばスキーのジャンプ競技も、団体戦をやるようになってからはファンの楽しみが倍増した。相撲も、佐渡ケ獄部屋と武蔵川部屋が5対5の対抗戦をやれば、観たがるファンは多いにちがいない。

 何にしろ、「改革こそが伝統」という考え方に立ちさえすれば、新しいコンテンツはいくらでもつくりようがある。その努力を怠ることこそ、大相撲の伝統を汚すものだ。
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