Jリーグの優勝争いが山場を迎えている。現在首位を走るのは、史上初となるJ2からの“昇格1年目”での優勝を目指す柏レイソルだ。快進撃を続けるチームを率いるのは、ブラジルの名門クラブを渡り歩いてきたブラジル人指揮官のネルシーニョ。その名将を2009年、レイソルに招聘したのが、強化本部統括ダイレクターを務める小見幸隆である。小見はJリーグ創生期に、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でも指導者や強化担当を歴任し、黄金時代を築いた経験を持つ。
 チーム作りのスペシャリスト、小見のサッカーに対する情熱を、17年前の原稿で振り返ろう。
<この原稿は1994年9月号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

「チームが大事になると出番を感じるんですよ。今さら“青春ごっこ”やってる年齢でもないのにね」
 ニヒルな笑みを浮かべて、ぶっきらぼうに小見幸隆は言った。
 昨春、Jリーグ開幕早々、チーム内に内紛が勃発した。ベテランDFの加藤久は自らの起用法をめぐって松木安太郎監督と激しく対立、ラモス瑠偉の首脳陣批判が火に油を注ぐかたちとなり、優勝候補の本命は、いきなり混迷の海にほうり出された。
「小見さん、何とかしてよ。このままじゃ、ヨミウリ、ダメになっちゃうよ」
 ラモスが珍しく弱気な口ぶりでつぶやいた。
「……救世主が必要だな」
 ラモスの真剣な眼差しに触れて小見は覚悟を決めた。すぐさま、小見はブラジルに飛んだ。

 リオデジャネイロのレストラン。目の前には物静かなクリスチャンが座っていた。元ブラジル代表。正確無比なテクニックに加え、クセのないプレースタイルに小見は早くから目をつけていた。
「要するにオレがたくさん点を取れば、ヨミウリが抱える問題は解決するんだろう?」
 単刀直入にビスマルクが切り出した。
「いや、点を取るとか取らないというのは、単にキミひとりの目標だ。それよりも、周りの若い選手がキミのプレーを模倣することを考えて欲しい」
 毅然として面持ちで小見は言った。
「分かった。その期待に応えるプレーをするよ」
 握手を求めると、物静かなクリスチャンは初めてニッコリと微笑んだ。
 来日したビスマルクは手始めとばかりにナビスコカップでMVPを獲得、二次ステージ制覇にも貢献、その余勢を駆ってヴェルディはチャンピオンシップでアントラーズを破り、Jリーグ初代王者に輝いた。その陰に救世主・ビスマルクの存在あり。小見の決断は土壇場で瀕死のヴェルディを救ったのだった。

 高2の秋だった。いとこが新聞の切り抜きを持って小見の前に現れた。
「おい、こういうのがきたけど、入ってみないか?」
 切り抜きは<読売クラブ結成>という社告だった。都立高のサッカー部員だった小見に、高いレベルの指導が受けられるクラブへの参加は渡りに舟だった。
 早速、応募すると「5番」という会員番号だった。
「練習場に行ってみると、芝生が4面あり“すごく広いなァ”と思ったですね。良かったのはコーチが2人、常駐していてマンツーマンで教えてくれるんです。皆、毎日来るわけじゃなから、僕ひとりの時もあった。多くて4、5人。“この指導員の人たち、ヒマだろうなァ”って思ったものですよ(笑)」
 読売クラブは結成当時から、プロ化を目的としていた。「あと、5、6年はかかるが、必ずチームはプロになり、キミたちもプロとして生きていくことができる」と折に触れ、創設の理念を聞かされた。しかし、Jリーグ誕生までには、25年の歳月が必要だった。
 小見がクラブから始めて支給された給料はわずか5千円だった。それは給料というよりも、交通費に近い性格のものだった。

 大学に進学した小見は、サッカーが続ける上での活動費を捻出するため、いくつものアルバイト転々とした。区役所の清掃係、歯医者のお抱え運転手、市場でのタマゴ販売……一時は高給に魅了されてトラックの運転手になることも考えたが練習に支障が出るため、すんでのところで踏みとどまった。
 チームは順調に地域リーグを勝ち上がり、日本リーグ2部入りを狙える位置にまで来ていた。小見はサッカーに専念するため、3年で大学を中退した。給料は8万円。大卒の初任給が10万円の時代、プロのサッカー選手の報酬はその程度のものだった。
 小見は述懐する。
「もう20歳になった時点で、日本のサッカーがダメだってことはわかっていましたよ。僕らが見本とすべきサッカーマンがこの国にはいないんですから。日本リーグの1部入りが目標とはいっても、日立と練習試合をすると最初全く歯が立たなかったのがやっていくうちにどんどん差が縮まっていく。当然、こっちはヨソとは目指しているものが違うから上達も速い。敵は多かったけど、それだけやり甲斐があったのも事実です」
 日本リーグの1部に上がってからも、読売クラブに対する風当たりの強さは変わらなかった。ミュージシャンと見間違うような長髪の選手が多く、それが他の実業団チームの誤解を招き「チャラチャラした連中に負けるな」というセリフが合言葉になった時期もあった。
「ネクタイつけて昼間、仕事しているような連中に負けるんじゃねぇぜ!」
 小見たちも、負けずに言い返した。

 小見は日本リーグ1部の試合に100試合出場し、4度のリーグ優勝、2度の天皇杯優勝などに貢献した。引退後はジュニアユース監督、ユース監督、トップチーム監督代行などを歴任、指導者としての地歩を固めた。北沢豪(ヴェルディ)、菊原志郎(レッズ)などは小見が手塩にかけて育て上げた選手たちである。

 小見が夢見たプロリーグは、引退後6年経って、やっと産声をあげた。昨年5月の歴史的な開幕試合を目の当たりにして、小見の胸はジーンと震えた。「いい時代だなァ。羨ましいなァ」と思う反面、「このあと、どうなっちゃうんだろう」と言い知れぬ不安に襲われたりもした。「というのもね、今のJリーグは僕の好みのサッカーをやっていないんです。少なくともウチはフィニッシュの部分と突破の部分でお客さんに喜んでもらえる個性あふれるサッカーにこだわりたい。そのためにも技術を大切にしたいね」。穏やかだが、気概にみちた強い口ぶりで小見は言った。
 誰が呼んだか、ヴェルディの陰のボス。「僕から言わせればサッカーは芸術。勝ち負けが全てじゃないんだよなァ」。タバコをくゆらせ、問わず語りにボスはつぶやいた。
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