「ピーーーーッ」
 オーブンのタイマーが鳴り響いた。工房にこんがりと焼けたパン独特の甘い匂いが広がる。オーブンを開けると、ふっくらと焼き上がったパンが登場した。「天使のパン」と呼ばれるそのパンを、多以良泉己はそっと両手で持ち上げた。まるで生まれたての赤ん坊のように、大事に大事にテーブルの上に置く。焼きたてのパンを見つめるその目は、まさに天使のような優しさに満ち溢れていた。
「喜んでくれるといいな……」
 届けられた先の人たちの笑顔が頭に浮かぶ――。それがそのパンが成功した証である。
(写真:パン作りの後にはトレーニングを欠かさない多以良)

「天使のパン」は一つひとつ、丁寧に多以良の手で作られる。そのため、一日に5個が限度というそのパンは、今や9年待ちだ。それでも注文が絶えないのは、何故なのか。「冷めても焼きたてのような美味しさで、食べた人を幸せにする」その秘密は、多以良の手にあった。触ってみると、まるで赤ん坊のような、それこそ食パンのような、ふわっとした感触を覚える。とても元競輪選手の男性の手とは思えない柔らかさに誰もが驚く。聞けば、競輪選手時代はマメができてゴツゴツしていたという。今のような柔らかさは、事故に遭ってからだ。

 実は入院中、多以良は不思議な体験をしている。まだ病室のベッドに寝たきりの状態の時のことだ。急に“気”が、パーッと体の中に広がったかと思うと、それがボールのようなかたちで部屋全体に広がっていった。多以良自身、初めてのことで、困惑したという。首から下が全く動かない状態の中、どんどん“気”のボールが膨らんでいくのを、多以良はただ見つめるしかなかった。そして退院後、その“気”は手から出るようになったのだという。それが彼が作るパンやケーキに注入され、食べた人にエネルギーを与えているというのだ。

 その話に驚きを隠せないでいる私に、「やってもらったら感じると思いますよ」と妻の総子が優しい笑顔で声をかけてきた。言われるがままに、そっと手を出すと、多以良が上からかぶせるようにゆっくりと手を近づけてきた。すると、何かふわっとしたものが私の手を覆った。そして多以良の手が触れるか触れないかの位置まで近づくと、わずかだがビリビリッという衝撃が伝わってきた。衝撃と言っても、激しいものでは決してない。柔らかさを伴った小さな小さな“ビリビリ感”だ。多以良の手がゆっくりと離れていくと、その感触はスッと消えた。これが「天使のパン」の美味しさの秘密なのか――。
「自分でもよくわからないんですけど、作っている時に、自分の手からホワホワと温かいものが出ているんです。僕は食べてくれる人のことを思い描いて、喜んでもらいたいと思いながら作っています。それがパンに伝わっているのかなと……」

 オアシスとしての存在

 パン作りのきっかけは妻・総子からのアイデアだった。もともとケーキ作りが得意だった多以良に、総子はリハビリの一環としてパン作りを提案したのだ。多以良は最初、不安でいっぱいだったという。経験から、ケーキよりも難しいことはわかっていたからだ。その理由は酵母菌の扱い方にあった。パン作りで最も重要なのが、酵母菌にとって居心地のいい温度と湿度を保つことだ。理想は春。温度は24〜25度。湿度は70〜80%。この状態に近づけるように、夏はクーラーと除湿器、冬には暖房と加湿器で調整する。細やかな神経を要するが、美味しいパンを作るには決して欠かすことはできない。それゆえ、多以良は難しさと同時に、酵母菌とのつながりの深さにパン作りの魅力を感じた。

 最初は趣味で作ったものを、近所や友人に配っていたが、やがて口コミで広がり、注文が増えていった。さらに新聞やテレビなど、メディアで紹介されるようになると、全国から注文が殺到するようになった。徐々に、多以良の生活の中心はパン作りとなっていった。ちょうどその頃、事故後3年が経ち、復帰の目途が立たない多以良は、競輪選手として終止符を打つことになった。選手登録手帳を協会に返還した日、多以良は妻・総子にさえもほとんど口を開かなかったという。生活の全てを競輪に捧げ、努力して手に入れた登録手帳を手放すということは、それほどショックが大きかった。

(写真:「天使のパン」の焼き上がりに納得の表情を見せる多以良)
 しかし、そのショックから立ち直るきっかけ……いや、ショックをひきずる暇を与えなかったのが、パン作りだった。待っている人たちのことを考えると、多以良はいてもたってもいられず、翌日からパン作りを始めた。忙しさのあまり、競輪選手を引退したことについて考える余裕などなかった。
「ここでくよくよしていても、仕方ない。前に進むしかないんだ」
 パン作りに没頭することで、多以良は少しずつ立ち直っていった。第2の人生のスタートだと思えたことが救いとなったのだ。そして、だからこそ今、多以良は再び自転車競技へも歩を進めることができている。

 今や「天使のパン」の作り手として全国にファンをもつ多以良に、競技者として大きな期待を寄せているのが、競輪時代の先輩、石井雅史だ。
「彼のパンを食べて幸せになった人、そしてこれからパンが届けられることを待ち望んでいる人たちに、競技者としての多以良泉己をぜひ見てほしいんです。パン作りの時とはまた違う、競技者としての彼の魅力が伝わるはずです。そして、彼の努力している姿を見て、パンを食べた時と同じように、元気や勇気を得ることができるでしょう。それは泉己にしかできないことなんです」

 病室で不思議な体験をした日。あの日から、多以良には一つの使命が下されたのかもしれない。パン職人の多以良が「天使のパン」で人を癒し、競技者である多以良が自転車で人に強さと勇気を与える――。つまり、多以良が意識するしないに関係なく、彼の言動が人を幸せにするのだ。多以良の名前の「己」には「自然と・ひとりでに」という意味がある。まさに「泉己」とは、「自然と湧き出た、人々のオアシス」なのではないだろうか。パン職人と競技者の多以良が融合された時オアシスにはさらに幸せの水が湧き出ることだろう。

(斎藤寿子)

※「The Road to LONDON」はNPO法人STANDとの共同企画です。パン職人とは別人の自転車競技者・多以良泉己を描いたアスリートストーリー「アスリートへの目覚め」とフォトギャラリーはこちらから!

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