ロンドン五輪まで4カ月。当コーナーでは、8月まで五輪特別編と題し、過去の大会の名シーンや印象に残る選手を振り返っていきます。
 今回は、アテネ五輪を直前に控えたボード男子軽量級ダブルスカル代表の武田大作・浦和重ペアを取り上げた8年前の原稿を紹介します。
 両選手は、4月6日にアジア選手権に出場する日本代表選考会でもペアを組みます。今回のレースは、昨年の代表選考の方法に問題があったため、武田・浦組と、一時は代表に内定していた須田貴浩・西村光生組の2ペアによる直接対決で代表を決定します。武田・浦組が代表に選ばれれば、同26日から開催されるアジア選手権で、武田は5度目、浦は3度目の五輪切符を懸けて戦います。
<この原稿は2004年8月19日号の『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 潮の香りの中に武田大作はいた。
 漁船やタンカー、フェリーボートが行き交う瀬戸内海・梅津寺沖。松山空港から車を走らせて約15分。土曜日や日曜日ともなると県内の海水浴客でにぎわう。
 夏の強い陽射しを浴びた海面がスポットライトを受けて乱反射するミラーボールのようにキラキラと輝いていた。

「もうここに居ついて15年ですよ。高校時代からずっとですから」
 時折、こぼれる歯がまるで漂白剤でも塗ったかのように白く感じられる。メラニン色素を凝縮したような浅黒い肌は、ボート選手というより、まるで漁師のそれだ。
「もう、この海は知り合いばかりなので、しょっちゅう声をかえられます。この前も“大作、練習終わったらイカ釣りに行こうか”って。こっちはオリンピック前で大変な時期なんですけどね。でも、こっちじゃオリンピック選手も漁師も皆、海の仲間ですから。アッハッハッ」
 笑い声が瀬戸内海の潮風に心地良く溶けた。
 潮風の向こうには入道雲。セスナ機がブーンと音を立てながら雲を切り裂き、広島方向へと消えて行った。

 ボート男子軽量級ダブルスカル日本代表・武田大作。アテネでは浦和重と組み、ボート競技では日本人初のメダルを狙う。ボートがマイナー競技の日本においては無名だが、本場・ヨーロッパでは顔も名も売れている。選手として国際ボート連盟の役員も務める。
 武田はボート競技においては異色の経歴の持ち主だ。名門大学、社会人の強豪チームに入り、良き指導者、良きライバルに恵まれ、頭角を現す――。それがボート競技を含め、この国のスポーツにおけるエリートコースだとするなら、彼は全く逆のコースを歩んできた。

 愛媛のみかん農家の次男坊。地元の農業高校から国立の愛媛大学農学部に進んだ。卒業後は地元企業のダイキに就職。故郷の海にひとりボートを浮かべ、独自の練習法でワールドクラスのスカラーに成長した。
 練習相手には、あろうことか瀬戸内海を行き交うフェリーボートを指名した。松山の高浜港からは瀬戸内海に浮かぶ中島や対岸の広島、柳井に向かうフェリーボートが20〜30分おきに出ている。それらをライバルに見立てて懸命にオールを漕ぎ続けた。
「こっちはフェリーが出航するのを待って、思いっきりオールを漕ぐんです。ちょっとフェリーの方が速いんですが、ライバルにはもってこいの“相手”なんです。まぁ、向こうにすれば迷惑だったでしょうね。危険だからと言って何度も警笛を鳴らされましたよ」
 世界中のスカラーで、海を練習場所にしているのは自分だけじゃないか、とも武田は言った。だからラフ・コンディションには滅法自信がある、とも。風が強ければ波が立つ。波が立てば艇が揺れる。主に湖や人造湖を練習場にしているヨーロッパの選手たちは荒れた水面を嫌う傾向にある。
「だからラフ・コンディションは僕にしてみれば大歓迎。しかし、浦は嫌がるかもしれない……」
 含みのある口調で武田は言った。

 ペアを組む浦和重は、ボート競技の本場・戸田を練習場にしている。人造湖ゆえ、うねりも波も出ない。ひとりが得意でもひとりが苦手では、有利なコンディションとは言えない。
 その点を質すと、案の定、裏は「そりゃフラットの方が好きですね」とサラッと言った。「ただ、ラフ・コンディションの方が気持ちはレースに集中できる。今回のスイスのワールドカップ(6月)、予選だけはお互い満足のいく“漕ぎ”ができたんですが、あの時はラフ・コンディションだった。ということは“ラフ・コンディション”の方がいいのかな」
 おどけた口調でそう付け加えた。
 今年5月から6月にかけて、ヨーロッパでボートのワールドカップが行われた。武田・浦組はミュンヘンでの第2戦、スイス・ルツェルンでの第3戦に出場し、いずれも満足のいく成績を残すことはできなかった。

「ショックでしたね……」
 率直に胸の裡(うち)を明かしたのは2歳年下の浦の方だ。浦は日大−NTT東日本東京とボート競技の名門コースを歩み、アトランタ、シドニーと二つのオリンピックを経験している第一人者の武田と2001年からペアを組み始めた。
 ワールドカップ‘04での惨敗はコンビを組むようになってから最大の挫折だ。
「本当なら決勝進出は当たり前でメダルを獲ってオリンピックにつなげるようなレースにしなければいけなかった。しかし、こんな結果になってしまって……。ミュンヘンでの7位は“まだ次があるから落ち込んでも仕方がないや”と思いましたが、スイスでの9位は“こりゃヤバイ”と。自分たちを見失ってしまうくらいショックでした」

 昨年7月、同じルツェルンでのワールドカップで武田・浦組は銀メダルを手にした。世界のトップとの距離を最も縮めたと実感できる大会だった。
 秘話がある。2位でゴールした瞬間、浦は「よっしゃ!」と叫び声をあげた。「よっしゃじゃない!」。怒声にはらんだ声に、浦は一瞬にして我に返った。
「怒られた瞬間はポカーンですよ。だって銀メダル獲って何で喜んじゃいけないのか、それがわからなかった。しかし、武田さんの頭の中には優勝しかなかったんでしょうね。“オレたちはここを目指していない!”と言われて目が覚めましたよ。確かに武田さんの言っている通りだと……」

 では、武田はどうだったのか。
「浦があまりにも喜んでいるので“それじゃ困るよ”と思って、ああ言ったんです。目的を低いところに設定すれば、それに合わせたトレーニングしかやりませんからね。トップを狙っていれば、それだけの練習もするし、目的意識も持てる。僕たちが狙っているのは山の頂上であって、7合目や8合目じゃない。それを確認したかったんです」

(後編につづく)
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