球界を代表するスラッガーが、ついにバットを置く。14日、福岡ソフトバンクの小久保裕紀が今季限りでの引退を発表した。小久保はプロ入り2年目の1995年にホームラン王を獲得し、97年には打点王に輝いた。今季は6月に史上41人目の通算2000本安打を達成。プロ19年間で、積み上げてきた本塁打(411)と打点(1290)は金本知憲(阪神)に次ぐ現役2位(17日現在)の記録だ。しかし、「フリー打撃でボールが飛ばなくなった」などの衰えを理由に、ユニホームを脱ぐことを決意した。誇り高きホームランアーティストらしい幕の引き方と言えるだろう。
 ミスターホークス・小久保のホームランへのこだわりを、16年前の原稿で、振り返る。
<この原稿は1996年3月28日号『Number』(文藝春秋)に掲載された原稿を抜粋したものです>

「打球の角度にはこだわりがあります」
 小久保裕紀への興味は、この一言がきっかけだった。
 彼は昨シーズン、28本のホームランを打ち、プロ入り2年目で初のホームラン王に輝いた。タイトル争いではイチローを抜き去り、清原和博の追撃をかわした。開幕ゲームは8番でスタートしたが、最終ゲームでは4番に座っていた。
 言うまでもなく福岡ドームは12球団のなかで最大規模のサイズを誇る。両翼100メートル、中堅122メートル。外野フェンスの高さは5.84メートルにも及ぶ。小久保は28本のうち9本をこの球場で記録した。
 バッターにとって最上の行為とはボールを遠くへ飛ばすことである。あらゆる打撃理論は、この一点だけのために存在していると言っても過言ではない。打球の角度へのこだわりは、長距離打者としての自負を示唆するものでもある。

 きっぱりと小久保は言う。
「福岡ドームのホームランは僕自身、誇りに思っています。あそこではこすったりドライブのかかった打球は絶対入らない。もちろん角度は45度か、それより高め。ごまかしの打球は一切通用しませんから」
 ルーキーだった一昨年のシーズンは、78試合に出場してホームランはわずか6ホン。ピッチャーとの間合いがうまくはかれず、打席での主導権を奪えないままにシーズンを終えた。
 それにより自らの課題がはっきりと見えてきた。筋力が弱い、テクニックが足りない、スイング・スピードもまだまだ……。打球も自分がイメージしたほどには伸びてはくれなかった。

「どうすれば、この広い球場を克服できるのだろうか……」
 練習のなかから、彼はひとつのコツを掴み取った。それはボールを“しばく”という感覚である。本人の言葉をそのまま用いれば、バットをボールにねじ込み、ヒザと腰のバネを使い、腹筋と背筋の力を最大限利用してボールをはじき飛ばす――。要するにインパクトの瞬間の力感を徹底して自らの身体に記憶させたのである。
「体を開かず、力を溜めるだけ溜めといて、ボールをとらえる瞬間、一気に爆発させる。ボールをとらえるまでは猫背で、インパクトからあとは背筋で持っていくというイメージ。そして最後にヘッドが上に抜けていく。いずれにしても、自分の持っているすべての力が伝わらない限り、福岡ドームではホームランにならないんです」

 打球を遠くに飛ばすためのフォームは人それぞれだが、インパクトの瞬間の姿勢だけはすべて一致している。自らの身体のエネルギーとパワーを、バットを媒体にしてどれだけ白球に伝えられるか。それが唯一無二の真理なのである。
 1960年代から70年代にかけてマルチストロボを駆使した連続写真が流行した。構えから振り出し、インパクト、フォロースルーにいたる過程を10コマ程度に分割したものだが、少年の私はその写真を見て目を疑った。ミートの瞬間が普通のバッターは2コマ程度しかないのに、王貞治の場合だけは3コマから4コマ、その部分で占められているのである。かくも長い間、王貞治はボールに自らの力を伝えていたというわけである。
 さらに驚いたことがある。インパクトの瞬間、ボールがモチのようにへしゃげ、バットにこびりついているのだ。これはものすごい衝撃をボールに与えたことの証拠だろう。なにしろ球体が三日月のようになっていたのだから。
 押し潰されたボールはそのままの状態で上空に舞い上がり、スタンドに飛び込む直前、元の球体に戻る。すなわち飛距離とは球体の復元力を利用したものであるということを、この連続写真は物語っていた。

 小久保の打球が切り離し式の2段ロケットのように外野手の頭上で伸び始めたのは、この“しばく”という感覚をマスターしてからである。野球に“たら”や“れば”は禁句だが、もし、小久保が福岡ドームを本拠地とするホークスに入団していなかったら、飛距離を伸ばす極意を掴めぬまま、あるいはそのテクニックに磨きをかけることもないまま、凡俗なバットマン人生を送っていたかもしれない。翻って考えれば、自らの意思で球団を選び、広いスタジアムを克服する決意を固めたその時点で、小久保は「勝者の資格」を得たともいえる。
 ホームラン王のタイトルも、小久保にとってはひとつの通過点に過ぎない。今シーズンは右方向へのホームランにもチャレンジしようと考えている。福岡ドームのライトスタンドは、右バッターにとってはいわば“未踏の嶺”である。チョモランマを北壁から登頂しようという試みにも似た大胆きわまりない冒険ということもできる。

 参考までに言えば、昨シーズン、福岡ドームで記録した9本のホームランの内訳はレフト方向に6本、センター方向に3本。残念ながらライト方向には1本もなかった。
「ライトへ打つのはやっぱり、開いていては打てないと思います。踏み込んでいって、ボールの外側を思いっきりしばくしかないでしょう」
 小久保は語気を強めて語り、身を乗り出すように続けた。
「流すという感覚ではホームランにできない。右に引っ張るんです。インコースよりも、さらにボールを潰すという感覚が必要だと思うんです。たとえていえば、左足の前あたりで、目の前にあるものを思いっきりバットで叩き壊すようなイメージ。打ったあと、右によろけるくらいでちょうどいいんです。
 下手すれば体の開きが早くなってショートゴロ、サードゴロになってしまうかもしれない。でも、あそこで右に持っていこうとすればそれくらいの意識が必要です。溜めといて、溜めといて、そして……」

 小久保は自らを「有言実行型のプレイヤー」ときっぱり言ってのける。シーズン前に目標を立て、それを口にすることで、自らを奮い立たせる。
「僕は黙ったままで、ここまできたんじゃないんです」
 スイングも鋭いが、弁も立つ。主観におぼれず、客観に甘えない。
 最後にもう一度、訊ねる。
「今年もボールをしばきますか?」
「ええ、もうボールがかわいそうだいうくらいしばきまくります。そのくらいの気持ちで潰さないと、こっちがやられちゃいますから」
 白球の直径、わずか7.2センチ。それはハンターに襲いかかる猛禽のようなものなのか。打撃とは球体との格闘である――。小久保の目は確かにそう語っていた。

 打球とはバットマンにとって表現の結晶である。そのバッターが何を考え、何を求め、何を志しているのか――。そのすべての情報が白球の中には詰まっている。
 さすれば打球とは、一瞬の叙情詩である。球音にじっと耳をすましていれば、きっと何かを語りかけてくれる。
 もう、そういう季節である。
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