イギリス・ロンドンで“もうひとつのオリンピック”と呼ばれるパラリンピックが開幕し、熱戦が続いている。陸上の男子マラソンは、最終日の9日に行なわれ、日本代表3選手が出場する。その中のひとり、高橋勇市は今大会で3連続出場となる。初のパラリンピックとなった2004年のアテネでは、T11(全盲)クラスに出場し、2時間44分24秒で、見事に金メダルを獲得した。連覇が期待された北京では、2時間43分38秒と、記録ではアテネを上回ったものの、T11とT12(弱視)のクラスが統合されたこともあり、16位に終わった。高橋はパラリンピック発祥の地とされるロンドンで、雪辱を胸に表彰台を目指す。
 全盲ランナーの不屈の物語を、05年の原稿で振り返る。
<この原稿は2005年5月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

「あきたこまちの稲穂のような金色のメダルを持ち帰りたい」
 アテネに立つ前、故郷・秋田のブランド米に引っかけて高橋勇市は言った。
 パラリンピックはオリンピックに引き続き行われる。高橋は視覚障害1のカテゴリーでマラソンの金メダルを狙っていた。
「(アテネは)マラソン発祥の地ですから、優勝して歴史に名を刻んでやろうと考えていました。最初は記録を狙うつもりだったのですが、アテネに行く前に右足のアキレス腱を痛めてしまったので、記録は後回しにして、とにかく勝負に徹しようと。自分は秋田生まれだけど暑さには自信がありました」

 42.195キロを伴走者とともに走る。路面状況も手探りなら、ライバルの姿を確認することもできない。精神的な重圧は健常者の比ではない。
「40〜41キロ地点で“後ろからランナーが迫っている。もう500メートルくらいの位置にいる”と伴走者が教えてくれたんです。“とにかく逃げろ!”と。
 しかし、じわじわ追いつかれ、残り100メートルを切ったあたりで追い抜かれてしまった。”あぁ、やられたな”と。”また北京で頑張ればいいや”と自分を慰めながらゴールしました」

 ところが、である。高橋を追い抜いたメキシコの選手、実は違うカテゴリーの選手だったのである。一口に視覚障害者とはいっても、3つのクラスに分類されている。同じゼッケンで走るため、伴走者も見分けがつかないのだ。
「だから後で“キミが金メダルだ”と言われても感動なんてないですよ。こっちは“抜かれた”と思って肩を落としているわけですから。
 ただ表彰台に立った時は感動したな。センターポールの日の丸は見えないけど、胸がジーンとして涙が止まりませんでした。手に取ると金メダルはズシリと重かった」

 視力の異常に気がついたのは高校2年の頃だった。体育の授業でバレーボールのゲームに出た。いつもなら見えるはずのボールが顔に当たった。
 眼鏡が合わないのかと思って、いくつか眼鏡を取りかえてみたが、一向に視力は回復しない。思いあまって病院の眼科を訪ねた。
 診断の結果は「白点状網膜症」
 医師は冷たく言い放った。
「20歳で失明します」
 17歳の高橋は後頭部をハンマーで殴られたようなショックを受けた。

 そもそも、どういう病気なのか。
「写真で言えば、フィルムのネガに塗っているクスリがダメになってしまったようなもの。専門用語で網膜色素上皮というのですが、それを貼りかえれば普通に見えるようになるらしい。
 しかし、これを貼りかえるのは今の医学の技術では無理。眼球全体を移植できればいいのですが、それには後30年かかるそうです」

 マラソンとの出合いは、沖縄の石垣島でマッサージ師をしていた時だ。長距離の実業団チームが合宿のため来島し、高橋にトレーナーとしての白羽の矢が立った。
 この時、初めてパラリンピックにもマラソンがあることを知った。ラジオに耳を近づけ、アトランタでの実況に耳をすませた。
「中学校の時に陸上をやっていた。短距離はダメだけど、長距離ならいけるかなと。アトランタの3カ月後には、もうマラソン大会に出ていました」

 しかし、その頃、障害者がレースに参加するのは容易ではなかった。不測の事態を恐れた主催者サイドに参加を拒否されたことも1度や2度ではなかった。
「そうしたハンディキャップを感じることは結構あります。署名活動をして、やっと出られるようになった大会もあります。本音をいえば、いずれはオリンピックの中にパラリンピックも加わればいいと思う。たとえば“視覚障害の部”といったカテゴリーができれば、僕らは参加することができる。また、その方が競技性も高まるし、見ている人たちにも感動を与えられるはず。自分の希望としては、全障害者が一緒にレースができる日が早く来て欲しい」

 この2月にはマラソンランナーとして憧れていた「別府大分マラソン」に出場した。残念ながら完走の夢はかなわなかった。
「25キロ地点の関門で引っかかってしまったんです。あと残り500メートルを切ったところで1時間33分を過ぎてしまい、係員に“上に上がってください”と言われてしまった。これはショックでした。僕が歩道に上がったのと同時に、後ろの車がダーッと走り始めた。だから来年こそはリベンジしてやろうと。
 でも、僕にはいい経験だった。歩道から絶え間なく“高橋さん、頑張れ”の声が聞こえてきた。この声援にどれだけ励まされたことか。知らない人たちが僕を支えてくれる。これ以上の勇気はありません」

 実はアテネに行く前、高橋はシドニー五輪の金メダリスト高橋尚子に伴走を依頼した。「狙っている大会がある」ということでQちゃんの伴走は実現しなかったが、もし実現していたら、世界的な話題になっていたことだろう。
「Qちゃんとは11月のレースで会い、“これがアテネの金メダルだよ”と言って首にかけてあげた。するとQちゃん、喜んでくれましたね。“皆さん、これがアテネの金メダルだすよ”と言って、周囲の人たちに披露していましたよ。その後で一緒に写真を撮ったりしたのですが、Qちゃんにはいい報告ができました」

 現在、高橋は三菱商事系の情報システム会社、アイ・ティ・フロンティアに籍を置き、ヘルスキーパーとして社員の健康管理を担当している。
 冗談をまじえた、ざっくばらんな語り口は、体のみならず心もなごませる。
「35年先には目が見えるようになるかもしれないので、この記事はジップロックに入れて真空保存しておこうかな。でも目が見えるようになったらパラリンピックには出られなくなってしまう。困ったな……」
 不屈の金メダリストはとびっきりのユーモアで会話を締めくくった。
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