巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄の天真爛漫ぶりを示すエピソードとして、しばしば取り上げられるのが「バント高田!」である。監督時代のミスター、チャンスでバントのうまい高田繁にバントの構えをしたまま、代打を告げたというのだ。
 よくできた話だが、これは本当なのか。一度、高田本人に訊ねたことがある。「あぁ、あれは僕じゃない。上田武司のことだよ。ただ僕にも似たようなことはあった。無死一、二塁の場面で、“おい、バント屋はいないか?”。僕と目が合うなり、“おい、高田!”と。僕は“バント屋? 冗談じゃない”と頭にきた。でも、今にして思うと“こういう難しい場面でバントを決められるのは高田しかいない”という意味だったんでしょうね」

 前置きが長くなったが、ボクシングの世界にはミスターがたくさんいる。「左、左、ジャブ、ジャブ!」「腹きいてる。ボディ、ボディ!」「打ち合うな。足使え!」。セコンドが大声で叫べば叫ぶほど手の内は相手に知れ渡る。前から疑問に思っていた。

 私の疑問に胸のすくような答えをくれたのがWBA世界スーパーフェザー級王者の内山高志である。「日本人相手の試合に大きな声の指示は危険ですね」。はっきり口にし、具体例まで持ち出した。

「僕が3度目の防衛に成功した時です。相手はサウスポーの三浦隆司。開始早々、僕が左でジャブを突くと、それにかぶせるように右フックを合わせてきた。空振りだったのに“それだ!”というセコンドの声が耳に入りました。またジャブを突くと“合わせろ。タイミングが合ってきているぞ!”と。この時点で相手の作戦は完全に理解できました。“あぁ、これが狙いなのか”と。それ以降は注意しながらジャブを打ちました。右フックをくらわないようにと……」

 相手が外国人だからといって油断するわけにはいかない。簡単な日本語なら理解できる者はたくさんいる。WBC世界バンタム級王者の山中慎介がオーストラリアのビック・ダルニチャン相手に初防衛戦を行った時だ。山中陣営は手の内がバレるのを警戒して左ジャブを「テッパン」、左ストレートを「オハコ」と言い換え、指示を出した。一種の暗号である。

「バント高田」で勝てるほど世界戦は甘くないのだ。山中は4月8日に3度目の、内山は5月6日に7度目の防衛戦を行う。

<この原稿は13年3月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから