長嶋茂雄と松井秀喜。5月5日、日本プロ野球界に偉大な足跡を残した師弟が揃って、国民栄誉賞を受賞する。長嶋は、超高校級スラッガーと騒がれた松井の指名権をドラフト会議の抽選で引き当て、プロ入り後は、付きっきりの指導で球界を代表する4番打者に育て上げた。その中で生まれた師弟愛は、昨年末の松井の引退会見でのコメントからも明らかだ。松井は、一番の思い出に「長嶋監督と一緒に素振りした時間」をあげている。ミスタージャイアンツの存在は、松井にとっても特別なものだった。戦後最大のヒーロー・巨人の背番号3の実像を、12年前の原稿で映し出そう。
<この原稿は2001年10月25日号の『Number』(文藝春秋)増刊号に掲載されたものです>

 戦後最大のヒーロー・長嶋茂雄がユニホームを脱いだというのに、さして感慨はない。あまりにも大切なものを失うと、人は寂しさに対して鈍感になってしまうものらしい。
 10月1日、甲子園でのタイガース戦を最後に、長嶋茂雄はプロ野球に別れを告げた。厳粛な空気が何かに似ていた。それは「卒業式」ではなかったか。長嶋茂雄という母なる学び舎から、私たちが巣立っていく日――私にはそう感じられた。

 少年の頃、誰よりも長嶋茂雄に憧れた。校庭で少年野球の練習をすると、ほとんど全員が<背番号3>のユニホームを着ていて、サードベース付近はすし詰め状態になった。コーチ役の先輩が「誰かひとりずつショートとセカンドに回れ。黒江と土井だっていい選手なんだぞ」と諭すように告げると、泣き出す少年たちもいた。

 公平を期すために、1イニングずつ交代でサードを守ったこともあった。その時の高揚感といったら、いったい何にたとえられよう。学芸会でシンデレラの恋人の王子役をやった時も、前の夜はうれしくて寝つけなかったが、それでもグラブを持ってサードベースの横でゆっくり腰をおとし、ポンと牛革をはじく時の喜びと比べると、ひどくちっぽけなものに感じられた。

 ピッチャーがボールを投げるたびに、「三遊間付近に速いゴロが飛んでこいよ」と願った。ゴロが襲ってきたら、左ヒザを地面の上に突き立て、サイドスローから、手のひらをひらひらさせながらファーストに矢のように送球するのだ。もちろん、その時のために帽子を飛ばす練習だけは日頃から怠りなくやっていた。

 サードを守る以上、打順はもちろん4番でなければ意味がない。ランナーを置いて打席に入る。グリップを少々、あまし気味にしてバットを構える。しぶとく三遊間を抜いてランナーをホームベースに迎え入れた瞬間、束の間、長嶋茂雄の気分が味わえるのである。

 それにしても、少年時代、なぜ、あれほど長嶋茂雄に夢中になれたのだろう。昭和30年代から40年代にかけて、この列島は背中に<3番>を背負ったベースボール・キッズたちであふれ返っていた。

 V9の後半、長島茂雄と王貞治の力関係は<背番号1>が<背番号3>の代名詞だった打点を奪回した段階で主砲の座を巡る“政権交代”は完了したはずなのに、それでもプロ野球シーンの中心には<背番号3>がいた。来季から後任監督として指揮を執る原辰徳が、引退の際のスピーチで「巨人には聖域があった」と告白したように、長嶋茂雄というプレーヤーは存在そのものが“聖域”であった。

 メジャーリーグにおいて「ベーブ・ルースといえどもベースボールより偉大ではない」という格言があるが、この国において長嶋茂雄という存在は、明らかにプロ野球よりも偉大であった。

 それが長嶋茂雄にとっては最大の悦びであり、と同時に最大の不幸だったのである。

 私が長嶋茂雄の魅力に最後に触れたのは、昨年の春先のことである。
 長嶋茂雄が<背番号33>を捨て、26年ぶりに<背番号3>のユニホームに袖を通すというのだ。別にどうってことはない。ただそれだけのことである。

 取材に行こうか行くまいか迷った末に、私は宮崎行きのチケットを買った。<背番号3>に憧れていたことは先に述べたが、少年時代の感傷にいつまでも浸っているほど無垢ではない。正直に言えば「感動よ再び」的な報道には、どこか胡散臭さを感じていた。

「ストリッパーじゃあるまいし、脱ぐ脱ぐとい言っておきながら、いったいいつになったら脱ぐんだよ。見せたからといって、減るわけでもないだろうに……」
 いささか乱暴な口ぶりながら、真っ赤に“しょうちゅう焼け”をした地元のオヤジの向上に、私はシンパシーを感じたりもしていた。

 2000年2月12日、南国の陽光を、身に浴びながら、ミスターは右手をジャンパーのファスナーを一気に引き下げた。「オーッ!」というどよめきがグラウンド全体を包む。続いて地鳴りのようなスタンディング・オベーション。

 その瞬間、テレビやラジオのアナウンサーは、まるで注目された事件の判決を我先に伝える司法担当記者のように、いっせいにしゃべり始めた。興奮のあまり、目に涙を浮かべる者までいる。

 いったい、何が起きたというのか。たかだか<背番号33>が<背番号3>に戻っただけのことじゃないか。もっと割り切っていえば3の数字がひとつ減っただけのことである。これのどこが事件なのか――。

 ジャンパーをエイヤッとばかりに脱ぎ捨てたミスターは、広島カープからFA権を行使してやってきた江藤智に向かって、おもむろにノックをはじめた。ノッカーが主役で、ノックを受ける選手が脇役というのも、考えてみれば、変な話である。

 サードベースの真横で構える江藤智は、昨年までミスターがつけていた<背番号33>を背負っていた。その意味でこのノックは単なるトレーニングとしてのノックではなく、<背番号3>のお披露目であると同時に<背番号33>を譲り渡す、神聖にして厳粛な儀式の色に染められたものでもあった。

 しかし、それにどんな意味があるというのか。儀式をありがたがるほどの信仰心を、私は野球に対して持ち合わせていないし、<背番号3>を目にして、古き良き日々に思いをはせるほど老いてもいない。

 白状すれば、長嶋茂雄が<背番号3>を披露したあとでも、まだ私はシラけていた。アナウンサーの感情の高ぶりは、仕事熱心の証としては褒められるものではあっても、どこかで“裸の王様”の振る舞いを鼓舞する無責任な言説の匂いをぬぐい去ることはできず、それもあってか、やはりシラけていた。

 ところが、である。ノックの様子をしばらくながめているうちに、不意にも私の視線は<背番号3>の虜になってしまったのである。

後編につづく)


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