「なんでこのタイミングなんだろう……」
 眞田卓は、そう思わずにはいられなかった。昨年5月、眞田は正式にロンドンパラリンピックの代表選手となった。ところがその直後、韓国で行なわれたチームカップで、右手首を痛めてしまったのである。パラリンピックを目指し始めた1年目、2011年から痛みが発症していた右肩をカバーしていたこともその要因として考えられた。パラリンピック開幕まで、残り約3カ月。本来であれば、本番に向けて身心ともにギアを上げていかなければならない大事な時だった。しかし、その時の眞田は“エンスト”を起こさないよう、ケガとの折り合いをつけることの方を優先せざるを得なかったのである。
 手首の痛みはロンドンの選手村に入っても、一向に良くなる気配は見られなかった。それどころか、さらに激しい痛みを伴うようになっていた。本番に向けて各国の選手たちが、どんどんギアを上げていく中、眞田は得意の強打を封印せざるを得なかった。最初のうちは、痛み止めの注射が効いていたが、そのうちほとんど効かなくなり、30分もすると痛みが出るようになっていた。さらに、もともと痛めていた肩の痛みもひどくなり、眞田は満身創痍の状態で、パラリンピックの開幕を迎えた。 

「人生に、そう何度もないチャンス。自分の力を出し切ろう」
 眞田はそう気持ちを切り替え、試合に臨んだ。1回戦、世界ランキング55位と格下の米国選手に6−1、6−2で勝利し、パラリンピックでの初白星をストレート勝ちで飾った。翌日の2回戦は第1セットを4−6で落としたものの、第2、3セットを共に6−3で取り、逆転勝ちを収めた。だが、この試合で眞田は転倒し、左手首を痛めてしまった。

 迎えた3回戦。勝てば、目標のベスト8進出となる大事な一戦だった。相手は当時世界ランキング5位、18歳のガスタボ・フェルナンデス(アルゼンチン)。5月のジャパンオープンでは、同1位のステファン・ウデ(フランス)を破って優勝するなど、最も勢いのある新鋭として注目されていた。眞田はその年、フェルナンデスと2度、対戦をしていたが、2試合とも接戦の末に敗れていた。

 この試合、眞田は第1セットを6−3で奪った。しかも、内容的にも満足のいくものだった。
「フェルナンデスとの試合は、いつもラリーが続く接戦というかたちが多かったのですが、その時は自分の打ちたいコースにショットがバンバン決まったんです。あれほど自分が優位に進められた試合はなかったですね」
 第2セットに入っても眞田のプレーは冴え、3−1とリードを奪った。飛ぶ鳥落とす勢いの若手を叩く絶好の機会が、眞田に訪れていた。

 経験不足を痛感した2度の逆転負け

 だが、シナリオなどないスポーツに“絶対”はない。眞田に異変が生じたのは、5ゲーム目だった。40−15とリードし、あと1ポイントでこのセットをキープできるところまできていた。セットカウント4−1となれば、眞田の勝利はさらに現実味を帯びてくる。勝負の行方を占う意味でも、大きなヤマ場を迎えていた。しかし、次のサーブで眞田はその試合で初めてダブルフォルトを犯してしまう。それでも40−30と依然、眞田のゲームポイントという状況は続いていた。とその時、ある言葉が眞田の脳裏をよぎった。
「オマエはサーブでミスが出ると、他のプレーも崩れる傾向にあるから、気をつけろよ」
 それはパラリンピック直前、国内で行なわれた代表合宿で言われたコーチからの言葉だった。

 眞田はさらに2回、ダブルフォルトを連発し、結局5ゲーム目を落とした。その間、相手は1度もラケットを振ってはいない。まさに“自滅”だった。コーチの言葉通り、眞田はそこからプレーに精彩を欠くようになっていった。第2ゲームを4−6で落とすと、第3ゲームは1ゲームしか奪うことができなかった。決してフェルナンデスが調子を上げてきたわけではなく、眞田が自ら崩れていったのだ。

 それでも最後には眞田らしい粘りも見せた。フェルナンデスのマッチポイントの際には、4度も凌いで見せた。右肩と両手首は、悲鳴をあげていたに違いなかったが、眞田は最後まで全力を尽くして戦った。
「マッチポイントを迎えた時、少しでも長くボールを打ちたいという気持ちがわいてきて、『腕が折れてもいいから、ボールを追おう』と思ったんです」
 結果は6−3、4−6、1−6で、逆転負け。出だしは好調だっただけに、過去2度の敗戦以上に悔しさが募っていた。

 眞田は敗因をこう分析している。
「見事な逆転負けでしたね(笑)。あのサーブが入っていれば4−1で、陽射しがまぶしくない方にコートチェンジでしたから、いい状況がつくれたはずなんです。それをあの大事な場面で、それまでなかったダブルフォルトですからね……。ここぞという時にミスをするというのは、やはり経験不足かなと思いました。1年半でトップ10にも入って、パラリンピックにも出場することができた。周りはみんな『すごい』と言ってくれて嬉しかったんですけど、自分では初めて海外遠征に行った11年から、メンタルの部分ではまったく成長が感じられていなかったんです。あの時、コーチの言葉を思い出したのも、メンタルが弱かったからだと思います」

 翌日、同じくパラリンピック初出場の三木拓也とダブルスの準々決勝に臨んだ。当時ダブルスの世界ランキング2位のロナルド・フィンクを擁するオランダのベテランペアに、眞田・三木ペアは下馬評を覆し、第1セットを6−1で奪ってみせた。ところが、第2セットに入ると流れが一転し、眞田・三木ペアは2度のブレイクを許し、0−4。5ゲーム目以降は互いにキープし、結局2−6で落とした。それでも第3セットは逆に眞田・三木ペアが2度のブレイクに成功し、3−0とリードを奪う。だが、そこから怒涛の反撃を受け、1ゲームも取れないまま、3−6。眞田にとってはシングルスに続いての逆転負けを喫した。

「『逆転負けと言ったら、眞田』みたいな感じですよね(笑)」
 そんな冗談を言いながら、眞田は改めて初めてのパラリンピックを振り返った。
「ケガをしてしまったのは悔やまれますし、試合の内容はあまり良くなかったと思います。それでも大会自体は十分に楽しむことができました。一番大きかったのは、ロンドンパラリンピックが真のスポーツの祭典だと感じられたからです。想像していたものよりも、100倍も良かったですよ。オリンピックと同様に、選手はアスリートとして試合に専念することができましたし、観客も純粋にスポーツを楽しんでくれていました。そういう環境のもとでプレーできましたから、気持ちの面ではやり切った感がありました」
 ロンドンを去る際の眞田には、予想以上の充実感があふれていた。

 リオに向けた“innovation”

 今年1月、眞田は右肩を手術した。それはロンドン前から考えていたことだった。肩の手術はヒジやヒザ以上に難しいと言われている。眞田の耳にも「肩を手術して、良くなったという事例は少ない」という話は届いていた。後遺症が残り、余計に悪化するのではないかと心配するコーチもいたが、眞田には迷いは一切なかった。

「いつも試合中に『この肩の痛みさえなければ』と思いながらやってきました。『手術したら治るかもしれない』と……。そういう気持ちのままでいるくらいなら、やってしまおうと思ったんです。もし、それでダメだったら、その時はまた考えればいいやと。試しもせずに悩んでいる方がストレスがたまりますから」

 医師の説明によれば、ヒジでよくある遊離した軟骨の破片を除去するクリーニング手術だった。
「『手術前の方が良かった』なんて、絶対に言わせないから」
 その医師の言葉を眞田は信じていた。手術は成功し、5日後には退院した。1週間後には軽く動かせるようになり、3週間後にはトレーニングを再開、そして1カ月後にはヒッティング練習がスタート……回復のスピードは医師の予想をはるかに上回るものだった。
「手術する前は肩の中がゴリゴリする感じで、動きが悪かったのですが、今は動きに制限がなくなりましたし、打つ時の痛みもない。手術して本当に良かったと思っています」
 苦しめられてきた肩の痛みから解放されたことに、眞田は嬉しさを隠しきれない様子だ。

<かっこ良く言えば、innovation!>というタイトルで掲載された手術後のブログには、 こんな言葉が綴られている。
<無事に肩の手術終わりました。長い間ストレスになっていた肩の痛み。ついに手術しました。良くなるか、悪くなるか、変わらないか、わかりませんが、昨日よりましかな。昨日より今日、今日より明日でしょ……(笑)。こっから新たな挑戦です。>
 そして手術直後、点滴を打ちながら病院のベッドで眠っている写真の下には、こんな言葉が添えられている。
<四年間の超大作ドラマ、今スタートです。>
 2016年リオデジャネイロパラリンピックへの戦いが幕を開けたのだ。

「innovation」は肩だけではない。ラケットもこれまでの“スピン系”から“ドライブ系”に替え、打球のスピードをさらに追求していこうとしている。
「ロンドンまで使っていたラケットは、フレームの厚さが太かったんです。さらに、僕は回転がかかるように小指が出るくらいにグリップを長く持っていたので、手首を痛めやすかった。それもあって、ラケットを替えようと。どうせなら、スイングスピードが出るラケットで、もっと速いショットを打とうと思ったので、“ドライブ系”に替えました」

 そのドライブ系のラケットも、面の大きさやガットの張り方などによって、メリット・デメリットが出てくる。眞田は今、2タイプのラケットを試している。
「今、悩んでいるのは面の大きさです。コントロールの性能を良くするために、面の大きさを以前の100インチから97インチに替えました。面が小さくなった分、面とグリップとの間の長さが長くなり、しなりも出て、強いボールが打てるんです。それで、さらにボールのスピードを上げたいと思って、89インチの面のラケットも試し始めています。さらに、しなりが出て、すごくいい。でも、問題は重さです。面が小さい分、ブレが生じやすいので、安定させるために重さが必要なんです。だから腕に負荷がかかって、続けて使っていると疲れてきちゃうんです」
 今シーズンは試行錯誤の日々が続きそうだ。チャレンジ精神なくして、 “innovation”はない。

 初めてのパラリンピックから、半年が過ぎた。ロンドン大会に共に出場した国枝慎吾、三木らは既に海外遠征をスタートさせている。そんな中、眞田は今シーズンは国内大会を中心にまわる予定だ。その理由は手術明けというだけではない。眞田はもう一度、テニスプレーヤーとしての自分を見つめ直したいと考えているのだ。

「これまでの体験を踏まえて、自分には何が必要かということを、地に足をつけて考えてみようと思っているんです。それと、初心に戻りたいなと。僕がなぜ、テニスをやっているかって、やっぱりテニスが好きだからなんですよね。それと大会に行くと、そこの地域の人たちや、いろんな選手と交流することができて、それが何よりの楽しみだったんです。でも、パラリンピックを目指して必死になる中で、楽しさよりも試合の結果ばかりを気にするようになってしまっていたかなと。どういう気持ちで試合に臨んでいたのかを思い出すためにも、今シーズンは国内の大会をメインにまわろうと思っています」
 初心忘れるべからず。眞田卓の“超大作ドラマ”はまだ、始まったばかりだ。

(おわり)

眞田卓(さなだ・たかし)
1985年6月8日、栃木県生まれ。埼玉トヨペットに勤務。中学時代、ソフトテニス部に所属し、3年時には県大会でベスト4に進出した。19歳の時にバイク事故で右ヒザ関節の下を切断。リハビリ時に車いすテニスの存在を知り、退院後に始める。2010年11月、上位8人に出場資格が与えられる日本マスターズに出場。翌年からパラリンピックを目指し、海外の大会にも出場するようになる。昨年、ロンドンパラリンピックに出場を果たし、シングルス・ベスト16、ダブルス・ベスト8の成績を収める。現在は2016年リオデジャネイロパラリンピックを目指している。

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(斎藤寿子)
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