池愛里(アジアパラ競技大会競泳日本代表)<後編>「嫌いだった水泳との再会」

 池愛里は幼少の頃からスポーツが大好きだった。球技ではバスケットボールに夢中になり、ゆくゆくは陸上をやってみたいという思いもあった。だが、ひとつだけ嫌いなものがあった。それは水泳だった。 「スイミングスクールに入っていましたが、水が怖くて最初の体験会で『絶対に辞める』と言って帰ってきてしまったんです。それからも週に1回……いや、ほとんど行っていなかったですね(笑)」  そんな彼女が競泳選手となった背景とは――。

池愛里(アジアパラ競技大会競泳日本代表)<前編>「初めて経験した“4年に一度の舞台”」

 16歳のスイマーは、電光掲示板を見てショックを隠し切れず、その悔しさは涙となって表れた――。  2014年10月20日、アジアパラ競技大会(韓国・仁川)は競技2日目を迎えていた。初出場の池愛里は前日の50メートル自由形で期待通り金メダルを獲得。しかし、狙っていた自己ベストは出ず、レース後の会見では「タイムは納得していない」と反省の弁を口にしていた。そしてこの日、池は100メートル自由形に臨んだ。前日、課題にあげていた「浮き上がりからの泳ぎ」もスムーズにいき、池は前半から飛ばした。それは「絶対に1分5秒を切る」という強い思いが込められた攻めの泳ぎだった。しかし、結果は1分5秒17。中国の選手に約1秒差で敗れ、銀メダルとなった。いつもは明るい笑顔がトレードマークの池だが、その日はレース後のインタビューでも涙が止まらなかった。

江口実沙(プロテニスプレーヤー)<後編>「プロ4年目、躍進のワケ」

「もうちょっと、ちゃんとやってみようかな……」  江口実沙が本格的にフィジカルトレーニングを始めたのは、2013年のオフだった。 「周りからは、『トレーニングをやったら、もっと良くなると思うよ』と、ずっと言われてきたんです。13年のオフにやろうと思ったのは、特に何があったからというわけではありません。その年から練習の環境を変えたら、少しだけ自分のテニスが良くなった感じがあった。それで、“フィジカルをやったら、もっと良くなるかも”と」  その“閃き”は翌年、吉と出た。

江口実沙(プロテニスプレーヤー)<前編>「1年前の雪辱でつかんだ日本女王の座」

 2014年11月8日、有明コロシアム。全日本テニス選手権、女子シングルス決勝。相手のバックハンドがサイドラインを割ったのを確認すると、江口実沙は満面の笑みを浮かべながら両手をあげ、喜びを爆発させた。「普段は(勝っても負けても)ほとんど泣かない」という彼女の目からは、涙がこぼれていた。それは1年前に流した涙の雪辱を意味していた――。

床亜矢可(SEIBUプリンセスラビッツ)<後編>「リンクに根を張り、花咲かす」

「宜しくお願いします!」  リンクから上がる時、SEIBUプリンセスラビッツに所属するDF床亜矢可は深々と頭を下げ、お辞儀をする。戦場への律儀な挨拶は、練習でも試合でも必ず行う彼女のルーティンだ。 「試合で第1ピリオドが終了した時も、第2ピリオドで自分がいいプレーできるようにお願いするんです。練習が終わっても『宜しくお願いします』と言いますね。『ありがとうございます』は引退する時。それまではいつそのリンクにお世話になるかわからないという思いがあるんです」  こうした床の真摯な姿勢は、競技にもプレーにも現われている。

床亜矢可(SEIBUプリンセスラビッツ)<前編>「雪辱を誓うスマイルジャパンの守備の要」

 彼女の視線は、もう4年後に向けられている。「スマイルジャパン」こと女子アイスホッケー日本代表は、今年2月のソチ五輪では5戦全敗という結果に終わった。スウェーデン、ロシア、ドイツという強豪相手に善戦するも、勝利にはあと一歩届かなかった。全試合に出場したDF床亜矢可は「1試合でも多く勝って帰りたかったのに、応援してくれていた方たちに申し訳ないというか、すごく不甲斐ない結果だった」と悔しがった。「自分のできることは100%出せたと思います。それでも結果がダメだったのは力不足だったということ」と、世界のトップレベルとの距離を感じ取った彼女は、2018年平昌五輪でのリベンジに燃えている。

井手勇次(東京サンレーヴス)<後編>「東京浮沈のカギ握る大黒柱」

「僕はもともとサッカー少年だったんです」  井手勇次にバスケットボールを始めたきっかけを訊ねて返ってきた言葉に、驚きを隠せなかった。というのも、彼の両親はともにバスケットボールの実業団の選手であるため、当然井手も、小さい頃から両親と同じ競技に触れているだろうと考えていたからだ。しかし、埼玉県にある実家の近くにはミニバスのチームがなかったのだという。そのため、井手は幼稚園の時に2つ上の兄と同じチームでサッカーを始めたのだ。当時の彼の夢はJリーガーになること。では、井手がサッカーからバスケットボールに転向するきっかけは何だったのか。

井手勇次(東京サンレーヴス)<前編>「不退転の覚悟で果たした下剋上」

「Most Improved Player」(MIP)とは、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)で前シーズンと比較して最も成長した選手に贈られる賞である。2013−14シーズンのMIP賞を受賞したのが、東京サンレーヴスのガード(G)・井手勇次だ。島根スサノオマジックに所属していた2012−13シーズンは出場19試合(プレイタイムは55分)で12得点に留まった。しかし、東京に移籍した昨シーズンは、レギュラーシーズン全52試合にスタメン出場し、プレイタイムも1884分に増加。平均得点は15.0点(日本人選手で3位)をマークするなど飛躍的な活躍を見せた。井手は今シーズンも東京と契約。キャプテンを任されるなど、チームから大きな期待を寄せられている。

田中正義(創価大学硬式野球部)<後編>「発展途上の最速154キロ右腕」

 田中正義は4人兄弟の3番目。父親によれば、他の兄弟とはまったく違う性格だったという。 「他の兄弟3人は結構しっかり者でしたが、正義はふだんはぼーっとしているところがあって、忘れ物も多かったんです。ランドセルを家に置いたまま、学校に行くこともありましたね(笑)。でも、興味のあることに対しての集中力はすごかった。特に体を動かすことに関しては、当時からストイックな面がありました。竹馬でも一輪車でも、できるようになるまでは、絶対に帰ろうとしないんです。もう、泣きながらでもやり続けていましたね」  そんな田中が最も興味を持ったのが、野球だった。

田中正義(創価大学硬式野球部)<前編>「目覚ましい活躍の裏にあった転機」

 今春、東京新大学野球リーグおよび全日本大学野球選手権大会で鮮烈デビューを果たしたのが、田中正義だ。昨年は一度も公式戦での登板がなかった右腕は、いきなり春の開幕戦で先発に抜擢された。指揮官の期待に見事に応え、4安打11奪三振、無失点。リーグ戦初白星を完封で飾った。その後、先発、リリーフとフル回転でチームに貢献。7試合に登板し、3勝1敗、防御率0.43の好成績でチームを優勝に導いた。そして全日本選手権では4試合に登板し、ベスト4進出の立役者となった。今や「4年生ならドラフト1位は間違いない」と、プロのスカウトからも絶賛されるほどの存在となった田中。大学球界で最も注目されている右腕だ。

石田太志(プロフットバッグプレーヤー)<後編>「タイシが抱く“大志”」

「フットバッグだけでは食べていけないだろうな……」  これが大学時代、石田太志が抱いていた正直な考えだった。大学4年になり、周囲が就職活動を始めると、自身も興味があった海外でのアパレル業界への就職を志望した。実は2006年にカナダに留学した際、彼は現地のアパレルショップで働いていた。「海外のアパレル業界での経験があれば、就職活動で企業に興味を抱いてもらえるのではないか」と考えたからだ。石田はカナダに到着すると、すぐに履歴書を手にトロントにあるアパレルショップ、約150店を歩いて回り、「Banana Republic」というGAP社系列の会社に採用された。そこで働きながらフットバッグの修行に励んだのだ。そうした“計画”が実を結び、08年4月、石田は「コム・デ・ギャルソン」に入社。仕事とフットバッグの両立を目指した。だが、それは予想以上に厳しいものだった。

石田太志(プロフットバッグプレーヤー)<前編>「日本フットバッグ界のパイオニア」

「フットバッグ」(Footbag)というスポーツをご存知だろうか。5センチほどの大きさ(規程は直径2.54センチ〜6.35センチ、重量20〜70グラム)でお手玉のように柔らかいバッグ(ボール)を足で蹴るスポーツである。バレーボールのようにネットを挟んでバッグを蹴りあう「フットバッグ・ネット」、 連続で蹴り続ける回数・時間を競う「フットバッグ・コンセキュティブ」、華麗な足技を競う「フットバッグ・フリースタイル」など、様々な競技がある。そのフットバッグの世界大会「第35回IFPA World Footbag Championships」が今年8月、フランス・パリで開催され、ひとりの日本人が「シュレッド30」(30秒間でどれだけ高度かつ色々な技を繰り出せるかを競う)という種目で王者に輝いた。男の名は石田太志。世界で唯一のプロフットバッグプレーヤーとして、大会出場などのほかに、競技の普及活動も行う日本フットバッグ界のパイオニアである。

早川賢一(バドミントン男子日本代表/日本ユニシス)<後編>「ダブルス一途で世界のトップへ」

「小学生の頃から自分は“ダブルス向きだな”と思っていました」。そう語る早川賢一は、遠藤大由と組む男子ダブルスで全日本総合選手権を連覇し、国際バドミントン連盟(BWF)の世界ランキングでも3位(21日現在)とワールドクラスに位置するダブルスプレーヤーである。高校までは、シングルスでも全国大会で好成績を収めてきたが、ダブルス選手として生きていく思いは揺らがなかった。

早川賢一(バドミントン男子日本代表/日本ユニシス)<前編>「“世界一”のムードメーカー」

「シャー!」「ナイッショー!」と体育館にこだまする声。言葉の主は、日本ユニシス実業団バドミントン部男子チームの早川賢一だ。「楽しくワイワイやりたい」と、練習中でも明るく大きな声を響かせる早川は、コートでひと際目立つムードメーカーである。今年5月にインド・ニューデリーで行われた国・地域別対抗団体戦の男子トマス杯では、日本代表のキャプテンとしてチームを牽引し、初優勝に貢献した。仲間たちと楽しそうにシャトルを追いかけ、練習に励む姿は“世界一”となった今でも変わらない。

右代啓祐(スズキ浜松アスリートクラブ/陸上十種競技)<後編>「どさんこデカスリート誕生」

「今はみんながオリンピックでのメダル獲得を“無理”だと思っているかもしれませんが、自分自身はそうは思わない。自分が歴史を作り、誰もが敵わないと思うような大記録を打ち立ててやりたい」。今春、日本新記録を連発し、好調を持続している十種競技・右代啓祐は五輪という大舞台でのメダル獲得に自信を覗かせる。元々、右代はハイジャンパー(走り高跳び選手)だった。その彼が混成競技への転向を決めたのは、高校2年の冬である。“デカスリート”(十種競技選手)右代啓祐の誕生には、ある人物が深く関わっていた。

右代啓祐(スズキ浜松アスリートクラブ/陸上十種競技)<前編>「ついに目覚めた偉丈夫な“王様”」

 走る、投げる、跳ぶ――。陸上競技の三大要素全てをこなさなければならないのが、十種競技である。2日間で100メートル、400メートル、1500メートル、110メートルハードル、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げ、走り幅跳び、走り高跳び、棒高跳びの計10種目の合計得点を争う。いわば陸上のオールラウンダーが挑戦する競技であり、ゆえに頂点に立つ者を「キング・オブ・アスリート」と呼ぶ。現在、日本の王座に君臨しているのが日本選手権5連覇中の右代啓祐だ。身長196センチ、体重95キロの恵まれた体躯を生かし、投擲種目を得意とする右代は、アジア、そして世界の “キング”の座を虎視眈々と狙っている。

村岡桃佳(ソチパラリンピック・スキーアルペン代表)<後編>「目標は冬夏連続出場」

「かっこいいなぁ。あんなふうに滑れたらいいな」  村岡桃佳が、まだ小学生の頃のことだ。家族と一緒にスキー場を訪れた村岡は、チェアスキーを習っていた。すると、そのすぐ傍を猛スピードで滑り降りてくる選手がいた。現在、チェアスキーのアルペンで世界トップに君臨する森井大輝だった。この時から森井は、村岡の憧れの存在となった。そして実際に競技を始めてからは、尊敬する先輩となった。 「今では森井さんの滑りにそっくりだね、とよく言われるんです」  森井仕込みのカービングターンが、村岡の最大の武器となっている。

村岡桃佳(ソチパラリンピック・スキーアルペン代表)<前編>「初のパラリンピックで流した2度の涙」

「何でこんなにも緊張しないんだろう」。村岡桃佳は、自分自身に違和感を感じていた――。  2014年3月8日、村岡にとって初めてのパラリンピックがロシア・ソチで開幕した。村岡のパラリンピックデビューは大会3日目のスーパー大回転だった。いつもならスタート直前まで吐き気をもよおすほどの緊張感に苛まれる彼女だが、その日はなぜかリラックスしていた。村岡はそんな自分が不思議でならなかった。 「今考えると、それ自体がもう普通ではなかったんだと思います」  この後、思わぬ結末が、村岡を待っていたのである。

遠藤航(湘南ベルマーレ)<後編>「世界挑戦への“出航”準備」

「戦う気持ちで、僕たちは相手を上回っていなかったと思います」  遠藤航がこう振り返ったのは、10年と12年に出場した「AFC U−19選手権」のことだ。U−19日本代表は、いずれも準々決勝で敗退し、「FIFA U−20W杯」の出場権を逃した。対戦相手は体を投げ出しながらボールを奪いに来た。対して日本の選手は、厳しい言い方だが足先だけで対応し、球際の競り合いで後手に回った。たかが“気持ち”、されど“気持ち”――。あと1センチ、体を寄せていれば、足を伸ばしていれば、結果は違っていたかもしれない。遠藤はアジアを勝ち抜く厳しさを2度も肌で感じた。しかし、彼は「負けたことがプラスになることもある」と、次に向かっている。16年リオデジャネイロ五輪だ。

遠藤航(湘南ベルマーレ)<前編>「日本サッカーの次代を担うディフェンスリーダー」

 2014年のJ2リーグ、湘南ベルマーレの勢いが止まらない。開幕から13連勝を飾り、1年でのJ1復帰へ邁進している。その中心としてチームを支えているのが、DFの遠藤航だ。プロ5年目の21歳はここまでフルタイム出場を続け、4ゴール。第11節の水戸ホーリーホック戦ではJ1、J2通算100試合出場を達成した。遠藤は2016年リオデジャネイロ五輪を目指すU−21日本代表でもリーダー的存在として期待されている。同年代の日本人選手の中で、屈指の実力と経験を誇る遠藤だが、現在のステージに立つまでには、様々な巡りあわせがあった。

石井寛子(ガールズケイリン)<後編>「いつか抜き去る。追い続けてきた背中」

「私も競輪やりたいなぁ」。石井寛子は高校で自転車競技を始めた頃、漠然と競輪選手に憧れていた。ただ当時、プロがあったのは男子だけだった。それまでは小中学校と陸上部に在籍しており、12年後、まさか自分がプロの競輪選手として活躍しているとは、この時はまだ知る由もなかった――。

石井寛子(ガールズケイリン)<前編>「勝つための道筋が見える」

 白、黒、赤、青、黄、緑、橙――カラフルな彩りがバンクに華を添える。2012年6月に産声を上げた「ガールズケイリン」。1964年に一度は廃止された女子競輪が復活したのだ。そのガールズケイリンで眩いばかりの輝きを見せているのが、石井寛子だ。昨シーズンは新人ながら、初代ガールズ最優秀選手賞(MVP)の加瀬加奈子、この年の賞金女王の中村由香里というトップ選手を抑え、MVPを獲得した。12回の優勝は加瀬、中村と並ぶものだが、1月からレースに出場できる1期生の2人と、5月からデビューした2期生の石井ではレースの出場回数が違う。その“ハンデキャップ”を物ともしなかった事実が石井の圧倒的な強さを物語っている。

乾達朗(SC相模原)<後編>「もう一度、日本で勝負したい」

 乾達朗は、2010年2月にシンガポール(S)リーグのアルビレックス新潟シンガポール(新潟S)に入団した。新潟Sのスタジアムは小さく、グラウンドはボコボコ状態。「こんなところもあるのか」と乾が驚くほど、日本の環境とはまったく違っていた。しかし、彼は悲観したわけではなかった。「それまでと違う環境でサッカーができることに、楽しさを感じていました」。所属先を探している間は、不安の中でサッカーを楽しむ余裕などなかった乾にとって、プロサッカー選手として、新たな環境で勝負できることが何よりも嬉しかったのだ。

乾達朗(SC相模原)<前編>「シンガポールからの“逆輸入”選手」

 9日に開幕した「明治安田生命J3リーグ」(J3)を戦うSC相模原にひとり、海外から日本に戻ってきた選手がいる。乾達朗、24歳。2009年にジェフユナイテッド千葉を契約満了で退団し、10年からシンガポールリーグのアルビレックス新潟シンガポール(新潟S)、ウォリアーズFCで計4シーズン、プレーした。11年にはリーグの最優秀若手選手賞、最優秀MF、ベストイレブンに輝いている。乾は今年1月、相模原に入団。サイドハーフ、トップ下で攻撃の中心としての働きが期待されている。

湯浅剛(NO EXCUSE)<後編>「取り戻した“がむしゃらさ”」

「罰があたったかな……」――救助のヘリコプターを待ちながら、湯浅剛はそう思っていた。  2010年1月、大学卒業を間近に控え、就職も内定していた湯浅は、父親と群馬県のスキー場に出かけた。ゲレンデ途中にはキッカー(ジャンプ台)があった。「ジャンプするのが好きだった」という湯浅は、キッカーめがけて勢いよく滑って行った。すると次の瞬間、空中でバランスを崩し、背中を激しく打ちつけた。起き上がろうとしても身体はまったく動かない。そして、両足に感覚はなかった。湯浅は自分に何が起きたのか、一瞬にして理解したという。そして、後悔の念がジワリジワリと広がっていくのを感じていた。

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