「サービスマン」と言えば、スキー板のチューンナップをし、ワックスがけを行なう、車で言えば整備士というイメージを持っている人は少なくないだろう。もちろん、それらも大事な仕事である。だが、サービスマンの役割は、そうしたマテリアル面だけにとどまらない。練習や試合会場まで自らの運転で選手の送迎もすれば、選手の身体的・精神的な状況を把握し、時にはコーチやトレーナーと選手とのパイプ役や相談役も務める。アルペン競技のレース時には、スタート地点まで選手に帯同し、無事にスタートさせるのもサービスマンの役割である。つまり、プレッシャーや興奮状態の中、選手はサービスマンと交わした会話や激励の言葉に送り出されてスタートを切るのだ。これがいかに重要で難しい任務であるかは、想像に難くない。今回はそんな知られざるサービスマンの姿を追う。
「僕らサービスマンは、選手の足元を預かっている。だからこそ、選手との信頼関係は欠かせません」
 日本のアルペンスキー界のエースとして君臨してきた佐々木明(ソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバー五輪代表)の専属サービスマンとして知られ、現在はナショナルチーム男子コーチ兼オフィシャルサービスマンを務める伊東裕樹は、こう語る。

 サービスマンが手掛けるスキー板のチューンナップの工程で、最も重要なのがエッジ加工だ。滑走面の両端を削って角度をつける「ベースエッジ」と、板のサイド部分に角度をつける「サイドエッジ」があり、ターン時に板が回転しやすく、かつコントロール性を高めるためにエッジに角度をつけることを「エッジビベリング」と言う。その角度は、競技種目、気候条件、雪質、各選手の技術レベルやタイプによって異なる。とは言っても、一般の人が目で見たり、手で触っただけではその違いはほとんどわからない。しかし、その100分の1ミリ単位の角度の違いが、選手の滑りには大きく影響してくるのだ。

 さまざまな雪質との勝負

 エッジビベリングを含めたチューンナップにおいて重要なのが、会場ごとに季節や気候によって異なる雪質を把握することだ。雪上を滑ると、スキー板との間には摩擦によって水分が生じる。それがひっかかりとなって滑りにくくなる。そのために、ワックスがけが必要となる。だが、そのひっかかりは大回転やスラローム(回転)のようなターンを要する競技には不可欠となる。いかにエッジにうまくひっかかるかによって、ターンの操作性が問われるのだ。

 雪質によっても、ひっかかり具合は異なる。日中溶けて水分を多く含み、夜に冷えてザラメとなった雪はよくひっかかる。これは真っ直ぐ滑るにはスムーズにスキー板が進まず、適していないが、エッジを使うターン系の競技には最適だ。こうした雪は、春先や海に面した地域に多いという。一方、欧州の山地に多いのがスケートリンクのようなアイスバーンだという。雪面がツルツルで、ひっかかりにくい。こうした地域ごとの雪質に加えて、レース当日の天候や気温を与し、サービスマンはスキー板のチューンナップを行なう。自然が相手という難しさがあり、経験がモノをいう仕事だ。

 伊東はこれまで6度の五輪に帯同した。もちろん、開催地によって雪質は異なり、チューンナップにも工夫が必要だ。特に北米の雪質は、他とはまったく違う特殊なものだという。2002年に開催されたソルトレイクシティ五輪が、まさにそうだった。
(写真:100分の1ミリ単位でのエッジビベリングがスキーヤーの滑りを左右する)

「標高が高い北米は乾燥が激しく、ザラメでもアイスバーンでもなく、人工雪と天然雪をミックスした雪をそのままかためたような、歩くとミシミシときしむ音がする雪なんです。ソルトレイクシティがまさにそうだったのですが、そういう雪はエッジが逆にひっかかりすぎる。そうすると、スキー板が滑らず、自分の動きたいように動くことができないんです。ですから、そのひっかかりを限りなくなくさなければならなかった。僕らサービスマンの腕の見せどころでしたね」

 ソルトレイクシティで伊東は、いつも以上にエッジビベリングの角度を大きくした。そうすることで、エッジと雪との接触部分の面積を小さくし、ひっかかりを減少させたのだ。
「ターンをするにはひっかかりは必要なのですが、あまりにもひっかかりが多いと、滑るという感覚ではなくなるんです。そうすると、スピードも落ちてしまうし、選手は攻めていくことができない。だから、特にソルトレイクでは選手たちが制御せずにグイグイ進む感覚が得られるようなセッティングを心掛けました」

 レース前日に起きた異変

 サービスマンが相手にしているのは、自然だけではない。前述したとおり、選手との信頼関係は絶対に欠かすことはできない。だからこそ、時には声を荒げることもある。伊東にとって、今でも忘れられないのが06年のトリノ五輪での佐々木明との“喧嘩”だった。伊東は佐々木が大学生の時から専属サービスマンを務め、誰よりも彼に期待を寄せていた。そして、佐々木が24歳の時に臨んだトリノ五輪は、“最大のチャンス”だと考えていた。佐々木は直前のW杯で日本人最高の2位となるなど、絶好調だった。さらにトリノの雪質はまるでフィギュアスケートのリンクのように硬いアイスバーンという好条件だったからだ。

 実はアイスバーンのような雪質は、エッジがひっかかりにくく、ターンの操作性が難しい。だが、その代わりに滑るとコースが荒れやすい湿度の高い雪のように、はじめに滑るトップ選手たちに有利にはならない。そのため、滑走順位が遅い選手にも挽回の余地は十分にあるのだ。ちなみに10年のバンクーバー五輪(カナダ)は日本の雪質に似ており、日本人には馴染み深い湿度の高い雪だった。だが、滑走順位が遅い選手の追い上げは非常に難しく、日本人選手にとっては実は不利であったことは否めない。

 さて、話をトリノに戻そう。佐々木自身も意気揚々と五輪に臨んだに違いない。「金メダルしか考えていない」と豪語し、周囲の期待を自らあおる様子からも、彼の自信の大きさは容易に想像ができた。そんな彼に異変が生じたのはレース前日のことだった。本番と同じ時間帯である夕方頃、会場はコースオープンとなり、佐々木は試走を行なった。すると、1回目の試走を終えた佐々木の表情には明らかに不満が募っていた。コースがまったく見えないのだという。

「確か夕方の4時か5時あたりで、薄明るさを残した微妙な時間帯でした。周囲が白みがかったような感じに見えて、雪の白さと混ざってコースがよく見えませんでした。それで明は他の選手のゴーグルを試したりしたのですが、結局どれも同じ。そこから、ナーバスになってしまったんです」

 解決策を見いだせないまま、翌日、佐々木は1本目のスタート台に立った。やはり、視界は悪い。「全然、見えねぇよ」と不満を口にする佐々木に、伊東は「仕方がないよ。もう、行くしかないだろ。とにかく1本目滑って、それから考えよう」と言った。その言葉に背中を押されるかのように、佐々木は意を決してスタートした。結果は54秒37。トップとは1秒差の8位タイにつけていた。伊東は「よし、いける。2本目、いつもの滑りをすれば、十分にメダルを狙える」と考えていた。ところが、佐々木自身はそうではなかったのだ。

 予想外の幕切れ

「よくやったな」
 伊東がそう佐々木に声をかけようとしたその時だった。
「もう、2本目は出ねぇよ! やってらんない。こんな見えない時間にスタートさせるのが悪いんだよ!」

 佐々木はそう不満をぶつけ、ブーツを脱ぎ捨てた。その言動に、伊東は怒りを露わにした。
「だったら、もう辞めろ! とっとと、日本に帰れよ。やる気のないヤツがオリンピックに出るのは、あまりにも失礼だ。みんなが応援してくれて、ここまでセットアップしてくれた人たちがたくさんいるというのに、そんなふうに言うオマエは最低だ!」

 すぐ隣にいたスタッフが「まぁまぁ、それは言いすぎだよ」と伊東と佐々木の中に割って入った。伊東も少し冷静になり、佐々木にこう問いかけた。
「もうやる気ないんだろう? 見えないから2本目、滑れないんだろう? だったら出る必要はないよ。もし、考え直して滑るんだったら、オレは滑った方がいいと思うけど、どうするんだ?」

 伊東の言葉に、佐々木も反省の色を見せ、「滑るよ」と答えた。伊東は佐々木にこう言った。
「みんな同じ条件なんだから、とにかくやれることをやるしかないだろう。2本目までにやるべきことは、選手村に帰って、明は身体をリカバリーすること。オレはもう一度チューンナップする。お互いに、しっかりと準備しよう」

 数時間後、2本目のスタート台に立った佐々木の表情に迷いは一切なかった。いつもの明るさを取り戻していた佐々木を見て、伊東も「よし、もう大丈夫だ。きっと、いける」と感じていた。辺りはすっかり暗くなり、1本目よりもコースは明らかに見えやすくなっていた。
「失敗してもいいから、とにかくオマエの一番いい滑りをしてこい!」
 そう言って、伊東は佐々木を送り出した。
「行くよ!」
 佐々木は勢いよく飛び出していった。

 1秒差を少しでも埋めなければならない佐々木は、どんどん攻めて行く……はずだった。ところが、スタートして間もなく、佐々木は滑りを止めた。なんと3つ目の旗門をまたぎ、「片足反則」で途中棄権となったのだ。誰も予想だにしていなかった、あっけない幕切れだった。

「明は気持ちを新たにスタートしたと思うんですけど、やっぱり一度、気持ちが崩れてしまうと、それを完全に立て直すのは難しかったんだと思います」
 トリノ五輪直後のW杯で佐々木は、再び2位となっている。やはり、佐々木の実力は十分に表彰台を狙える域に達していたのだ。それだけに、トリノでの途中棄権は悔やんでも悔やみきれないものとなったに違いない。

 しかし、この一件は佐々木にとって悪い思い出とだけなったわけではなかったように思われる。4年後のバンクーバー五輪開幕直前のインタビューで、佐々木はトリノでのことをこう語っている。
<あのとき、言い訳したことを後悔してます。あれからは言い訳しないようにしてますよ。言い訳すれば『負け』ですからね>(「朝日新聞」2010年2月28日付)
 自分を叱ってくれた伊東に、佐々木はさらなる信頼を寄せたに違いない。

(後編につづく)

伊東裕樹(いとう・ひろき)
1967年2月7日、北海道出身。上川高校、日本体育大学ではスキー部に所属。大学卒業後、サービスマンとしてヤマハに入社した。97年、ヤマハがスキー競技から撤退すると同時に退社し、スキー・スノーボードのチューンナップショップ「T.C.S.」を設立。同年、日本代表チームのサービスマンとなる。99年より佐々木明の専属サービスマンに。現在はアルペンナショナルチーム男子コーチ兼オフィシャルサービスマンを務める。

(文・写真/斎藤寿子)
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