五輪金メダリストvs.東洋太平洋王者――。ロンドン五輪でボクシングのミドル級を制した村田諒太のプロデビュー戦の相手が、柴田明雄に決まった。柴田は東洋太平洋同級王者であり、日本スーパーウェルター級の現2冠王者。デビュー戦としては異例のカードとなった。村田が勝利すれば、プロ2戦目にして日本タイトルに挑戦する可能性も出てくる。ただ世界のミドル級は激戦区で、これまで日本人で王者となったボクサーは竹原慎二(WBA)ひとりしかいない。1995年、竹原が日本スポーツ史に残る偉業を成し遂げた陰には、福田洋二トレーナーの存在があった。快挙の舞台裏に、16年前の原稿で迫ろう。
<この原稿は1997年発行の『奇跡のリーダーシップ チームをNo.1にした男たち』(小学館)に掲載されたものです>

「相手の腹見れ!」
 青コーナーのセコンドにつくなりトレーナーの福田洋二は叫んだ。
 コクンとうなずく竹原慎二に向かい、福田はさらに続ける。
「あんなダブついた腹の選手に負けでもしたらリングから降ろさんからな!」
 1995年12月19日、東京・後楽園ホール。WBA世界ミドル級タイトルマッチ。
 チャンピオンのホルヘ・カストロは104戦98勝(68KO)4敗2分という破格の戦績を誇るアルゼンチンの強打者。アマチュア時代も含めて、これまでに一度もダウンを喫したことがない。

 一方、チャレンジャーの竹原は東洋太平洋ミドル王座を6度防衛しているとはいえ、キャリアはわずか23戦(全勝18KO)に過ぎない。身内やジム関係者以外で勝者にチャレンジャーを支持する者は皆無に等しかった。

 ミドル級といえばシュガー・レイ・ロビンソンをはじめ、シュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラー、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランといったスーパースターを生み出したヘビー級とならび世界最難関のクラス。「日本人が月に行くような時代になっても、このクラスからチャンピオンは出ないだろう」と言われていた。実際、日本ボクシング界はチャンピオンどころかチャレンジャーすら、ひとりもリングに送り込んだことがなかった。

「誰も僕が勝つなんて思っていないでしょうね」
 当の竹原自身、試合前は自嘲気味にそう語っていた。
 ところが――。
 試合は1ラウンドから竹原のペースで進んだ。矢のような左ジャブ、ワンツーが小気味よくヒットし、快挙への期待を抱かせた。ディフェンスに回っても身長差、リーチ差をいかして、チャンピオンの攻撃をことごとく不発に終わらせた。

 そして迎えた3ラウンド、戦慄のシーンが訪れる。満を持して放った左ボディブローがチャンピオンのレバーに刺さったのだ。生涯初のダウン。
 この瞬間、後楽園ホールの興奮はピークに達した。チャンピオンはマウスピースを故意に吐き出し、レフェリーのカウントを遮断した。かろうじて立ち上がったもののダメージは深く、竹原は一気に優位に立った。セコンドの作戦がまんまと図に当たったのだ。

 しかし、チャンピオンの100戦を超えるキャリアは、やはりだてではない。中盤、左右の豪快なフックを振るって、攻勢に移り、何度かチャレンジャーにロープを背負わせた。
 手に汗握る攻防。終盤、会場には期せずして「タケハラコール」が巻き起こった。チャレンジャーは強打のチャンピオン相手に最後まで果敢な打ち合いを挑み、ついに日本人として初めて世界ミドル級のベルトを腰に巻いて見せた。日本のスポーツ史に、新たなる歴史が刻まれた瞬間だった。

 振り返って、福田は語る。
「試合中は怒ってばかりいましたよ。ちょっとヘバっている時には“オマエ、あともうちょっとで世の中がかわるんだぞ!”って発破もかけました。スタミナが最後まで持つか心配だったんですけど、果敢によく闘ってくれましたね」

 試合の数日前には竹原から悩みを打ち明けられた。
「先生、眠れないんです」
 聞けば、倒される夢ばかり見るのだという。
「しょうがねぇよ」
 福田はぶっきら棒に吐き捨てた。下手な慰めは、かえって竹原の悩みを深刻にしかねないと判断したからだ。
「無理に眠ろうとしなくてもいいから、電気を消し、目を閉じ、横にさえなっていれば自然と疲れはとれるよ。心配するな」

 そして迎えた試合当日、リングに上がる直前になって竹原に数分間の静寂を与えた。集中力を高めさせたかったのだ。
 ドアを閉める前に竹原に目をやると、瞑想している様子がうかがえた。
 福田は心の中で、「よしっ、これは行ける!」と小さく叫んだ。
 竹原の大きな背中には“世界獲り”への自信と決意のほどがはっきりとうかがえた。

 福田は語る。
「ここまできたら、もう逃げも隠れもできない。闘うのはあくまでも自分自身なんだ、ということを再認させるためにひとりにしたんです。もともと闘争本能の強い子ですからね。2、3分してドアを開け“さぁ、行くぞ!”と声をかけると、実にいい表情でこたえてくれましたよ」
 竹原を指導し始めたのは東洋太平洋王座に挑戦する前あたりから。
「いい選手だけど、ミドル級で世界を獲るのは難しいよね」
 異口同音にボクシング関係者はつぶやいた。
 そのたびに福田は色をなして反論した。
「いや、竹原は違うな。今までの日本人とは違い、大きい割に運動神経や反射神経もある。まぁ見ていてよ。今に間違いなくコイツは世界を獲るから」

 186センチの竹原に対し、福田の身長は160センチ少々。ミットを取ると、体ごと吹っとばされそうになった。それでも福田は歯を食いしばり、
「大丈夫だ! 向かってこい!」
「オレはこのぐらいじゃ音を上げん!」
 と叫び続けた。
 キャンプが終わると、決まって肩が上がらなくなった。しかし、それも福田にはうれしいダメージだった。

 竹原に自信を持たせるための演出もいくつか試みた。
 カストロがアマ、プロを通じて1度もダウンを喫したことがないという情報を得ると、聞こえよがしに、「1回もダウンしていない? 面白いじゃないか! こりゃ倒しがいがあるというものだよ」と、竹原に発破をかけた。

 またカストロが竹原を見くびったような発言をすると、
「タケをなめるってことは、この福田洋二をもなめるってことか!」と、息を巻いた。
 こうしたパフォーマンスを通して、福田は竹原に自信を持たせ、心の中にわだかまっていた不安や恐怖心を取り除いていった。

「こちらが強気の姿勢を見せることで、ボクサーをその気にさせ、闘争本能を高めていく。これも僕たちトレーナーの大きな仕事のひとつなんですよ」
 情熱家を絵に描いたような口ぶりで福田は言った。

 ボクサーとしての福田の実績は決して華々しいものではない。大学時代、東京五輪とメキシコ五輪の強化選手にこそなったものの、オリンピックには出場できなかった。
 卒業後、プロに転向。フライ級で3試合(全勝)を戦ったものの、右目を悪くしたため、早々と引退を余儀なくされた。

 残された道はトレーナーしかなかった。 
 金平正紀会長の知遇を得て協栄ジムの専属トレーナーとなった福田は、しばらくしてアメリカへ修行の旅に出る。目的地は当時、優秀なボクサーやトレーナーの宝庫といわれたロサンゼルスのメインストリートジム。ここで福田はトレーナーとして生きていく上での貴重な財産を得た。

 振り返って、福田は語る。
「日本とはプロ意識がまるで違っていました。自分で知識や技術を得たいと思ったら、教えを乞うのではなく盗まないといけないんです。
 たとえばトレーナーには止血の技術が必要ですが、彼らはいったいどういう薬を使っているのか。それを知るために、有名なトレーナーの薬箱をそっと開けてのぞいたりしました。
 それはバンテージの巻き方にしても同じです。あるトレーナーには“バンテージは外見じゃないんだ。試合後、ボクサーが手を傷めたか、痛めなかったかが勝負なんだ”と言われました。目からウロコが落ちる思いでした」

 また、福田はこうも言った。
「日本のトレーナーはボクサーの個性を殺し、枠にはめたがる。アメリカの場合はもっと長所を伸ばそうとします。トレーナーは選手が練習しやすい環境や状況をつくることを第一義に考えているんです」

 帰国後、具志堅用高や渡嘉敷勝男のセコンドにつき、彼らの世界戴冠に大きな役割を果たした。それとともに福田の名前も広く業界に知れ渡っていった。

――ボクサーを指導する上で最も大切なことは何か?
「それはいかに選手を乗せるかということですよ。どんなに指導者に技術や知識があったとしても、選手がそっぽを向いてしまってはどうしようもない。
 どんな時でも主役は選手。トレーナーは脇役なんです。だってトレーナーを見にくるお客さんはひとりもいないんだから……」

 今は亡き名トレーナー、エディ・タウンゼントの名を冠した賞が、その年、最高の働きをしたトレーナーにおくられる。95年度は日本人初の世界ミドル級王者誕生に貢献した福田が選出された。
 その感想を求めると、福田は居ずまいを正し、誠実そのものといった口ぶりでつぶやいた。

「この賞は僕ひとりのものではない。沖ジムというチームを代表して、たまたま僕がもらえるものだと考えています」
 授賞式はタウンゼント夫人が営む中野区の小さなスナックで行なわれた。
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