大野のみならず、甲子園は毎年のように犠牲者を生み出している。第68回大会では、優勝した天理のエース、本橋雅央(早大−オリンパス光学工業)が右ヒジの負傷をおして力投を演じ、その痛々しいまでのマウンド姿が同情を呼んだ。結果的に甲子園でのピッチングが原因で、彼は野球生命を断たれることになる。
<この原稿は1999年の『Do or Die――スポーツは誰のもの!? 21世紀への提言集』(KSS出版)に掲載されたものです>

 振り返って、本橋が語る。
「予選から痛みはありましたが、ひどくなったのは甲子園が始まってから。9回投げた時には指の先にまで痛みが走り、小指からヒジにかけての外側は、触れられても感覚がないんです。準決勝が終わった後、痛み止めの注射を2本打ちました。医者に“もう腕はどうなってもいいから、とにかく痛くならないようにして下さい”と頼むと“ホンマに、どうなっても知らんぞ”と言われました。でも、僕は本当に自分はどうなってもいいと思っていた。甲子園で優勝するために、辛くて苦しい練習に耐えてきたわけですから。しかし、今になって考えると、それで良かったのかどうか……」

 決勝戦の前、ある記者が「本橋君のヒジは大丈夫なのか?」と天理高の橋本武徳監督に訊ねたところ、「あの子の進路や将来については、私が全て責任を持ちます」という答えが返ってきたという。卒業後、本橋は推薦入学で早大に進んだが、公式戦には1試合しか登板することができなかった。しかしドロップアウトすることなくきちんと卒業し、一部上場企業のオリンパス光学工業に就職した。一般世間の価値観に従えば、高校の監督は責任を果たし、選手もしっかりと第2の人生を歩んでいるということになる。しかし、当の本橋に悔恨の思いは消えない。

「確かに僕は甲子園の優勝投手になれた。これは自分だけの財産だし、誰に対しても胸の張れるものです。と同時に、甲子園で取り返しのつかないことをしてしまった、と後悔しているのも事実です。小さい頃からずっと野球をやってきて、できれば大学で活躍し、プロにも行きかったのに、今やヒジと肩の後遺症で草野球すらできないんですから。大好きな野球ができない。これほど辛いことはないです。甲子園で同期のヤクルトの飯田や岡林、巨人の緒方らの活躍を見ると、いたたまれなくなります。僕だって、高校の時にはプロから話があったんですからね。諦めようにも諦められない気持ちがいまだにブスブスとくすぶっています」

 プロ野球の世界には「夏の甲子園優勝投手は大成しない」というジンクスがある。最近の選手を例にとっても、1978年の西田(PL学園−法大−広島)、80年の愛甲(横浜高−千葉ロッテ−中日)、81年の金村(報徳学園−近鉄−中日−西武)、82年の畠山(池田高−南海−ダイエー−大洋−横浜)らは炎天下の酷使で肩やヒジを痛め、その後はバッターに転向した。荒木(早実−ヤクルト)、水野(池田高−巨人)、三浦(横浜商−中日)、野中(中京−阪急−オリックス−台湾・俊国−中日−ヤクルト)、川島(東亜学園−広島)ら甲子園で騒がれた投手もプロに入ってからはパッとせず、少々、手厳しい言い方をすれば評判倒れの印象を残した。

 もちろん、その全ての原因が甲子園での酷使にあるとは言わない。だが、かなりのパーセンテージを占めていることは否めない。「所詮、本人の力がなかった」という理由だけで片付けられる問題ではない。最近の夏の優勝投手で、プロに入ってからも活躍しているのは巨人の桑田ぐらいのものである。

 炎天下での甲子園の連投が、いかに酷なものであるか、もう少し甲子園OBたちの体験談を紹介しておこう。
「一番ひどい時は握力がなくなるくらいヒジが痛かった。ヒジが肩より上に上がらなくて、手首でしか投げられなかった。投げ方が悪くなると腰までひどくなり、平らなところでもつまずいていましたよ。夏の甲子園は暑いから余計に消耗するんです。決勝戦は体全体が疲労の極致で、自ら監督に頼んでマウンドを降ろしてもらった。甲子園から帰ってきたら体重が5キロも減っていました」(愛甲猛)

「センバツで4連投した時には700球以上投げたんと違うかな。決勝はもう立っているのがやっとの状態で、三塁線のバントを捕りに行って倒れたしまった時は、しばらく立ち上がれなかったもんね。この経験のお陰で夏は上手に抜きながら投げられたけど、それでも予選はコルセットを巻いていた。実際に投げたこともない者は“3連投ぐらい根性で”と言うけど、これはホンマ、きついよ。経験した者にしか分からへん。体がへばると違う投げ方をするから故障する確率も高い」(牛島和彦)

 甲子園障害について語る時、必ず引き合いに出される話がある。74年のドラフトで中日はその年の夏の甲子園優勝投手、土屋正勝(銚子商)を指名、獲得することに成功した。当時中日のピッチングコーチをしていた近藤貞雄(評論家)は「楽しみなピッチャーが入ってきた」と言って小躍りした。ところが、キャンプで土屋のヒジを見るなり、一瞬にして期待は失望にかわってしまう。くの字に曲がったまま、真っすぐに伸び切らないのだ。言うまでもなく、高校野球での投げ過ぎが原因だった。

 当時者の土屋(保険業)が語る。
「プロに入ると時もヒジは痛いし、腕が伸びないことも分かっていました。それでも入ったのは“プロには専属のトレーナーがいるから心配しなくていい”と言われたから。でも、結局は元に戻らなかった。僕の球が一番速かったのは高2の頃。結局、高校野球の後遺症には引退するまで悩まされました」
 さすがに最近では「曲がったヒジは木にぶら下がって治せ」というような無茶苦茶な指導をする者こそいなくなったものの、依然として過度の投げ込みや、オーバーワークに近いトレーニングを強制する指導者は少なくない。

「高校野球が教育の一環というなら、まずは指導者こそ教育すべき」
 と持論を述べるのはスポーツ障害医療に積極的に取り組んでいる信原病院整体力学研究所の信原克哉院長。医療側のスペシャリストとして、こう警鐘を鳴らす。

「高校野球の監督さんは一部を除いて、ほとんど肩やヒジのことが分かっていない。大まかにいってオーバーユースには?炎症?器質的な変化、の2つがあるんですが、?の炎症の段階で治療を受けさせねばならんのです。私が診た代表的な例では育英の戎信行(90年夏、甲子園に出場。オリックス)がそうやった。本人は最後まで投げたかったようですが、私は監督さんに“7回までが限界や”と釘を刺しておいた。それ以上投げさせると?の器質的変化に移行する恐れがあったんです。この段階にくると、後は手術しかなくなる。まさに沖縄水産の大野君がこの例です。しかし、?の段階なら治療すれば治すことができる。それが証拠に戎は、現在ほぼ元の状態にまで回復してきた。主催者の朝日新聞や高野連は、こういう判断のできる専門分野の医師をレフェリーとして、球場に置いておかんと、大野君の時のようなあやまちをまた繰り返してしまうことになる。医者なら誰でもええというもんやないんです。3連投や4連投なんて、無茶苦茶もええとこや。私から言わせてもらえば40度の熱の子に山登りさせているようなもの。高校野球が教育の一環というなら、それを止めんといかん。甲子園は整形外科医を設けさせるための大会やないでしょう」

 スポーツ障害を防止するためには、高校野球のあり方そのものを見直すような抜本的な改革が必要だろう。中でも第一に着手すべきは強行スケジュールの緩和ではないか。本橋は自らの体験を踏まえた上で「せめて準決勝か決勝の間に1日、休みをはさむことはできないものか」と提案する。そして、続ける。「たった1日とは言いますが、連投のピッチャーにはこの1日がものすごくありがたいんです。僕は決勝の前日、雨が降ることばかり願っていましたが、準決勝や決勝に勝ち進んだピッチャーのほとんどがそう思っているはずです」

(後編へつづく)
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