イタリア系移民の子として生まれたダマトがトレーナーとして脚光を浴びたのは、今から30年も前のことだった。
 フロイド・パターソンに独自の防御理論から編み出したピーカブー(のぞき見)・スタイルで構えさせ、ヘビー級王座まで上りつめさせた。しかし、ソニー・リストンの挑戦を「暗黒街につながりのあるヤツはだめだ」と突っぱねたことによりプロモーターたちから疎んじられ、引退を余儀なくされた。
<この原稿は1994年発行の『勝ち方の美学』(講談社)に掲載されたものです>

 そこに突如として現われた原石のような好素材。ダマトはタイソンのその若い肉体に見果てぬ夢を託したからこそ、豊饒な愛を注ぎ、養子にしてつなぎ止めるという手段に出たと考えられる。

 老トレーナーの見果てぬ夢とは、いうまでもなく世界最強のヘビーウエイトを自らの手でつくることであり、突きつめていえば、パーフェクトなファイティング・マシーンを製造するということにほかならなかった。それは生涯独身を貫き、東洋の哲学書を読みふけることなどからしばしば偏屈屋と見られたダマトの、高度ではあるがかなり屈折した自己満足であったといえるかもしれない。

 ダマトは完全主義者でもあった。自ら発明したピーカブー・スタイルは、つまり一発もパンチを受けないという理想の結実であり、攻撃に移れば人間の急所とされる肝臓、左の肋骨、耳下の顎骨を徹底して狙わせた。

「リングは神聖な場所だ。そこでは、いかなる相手でも全力を集中してケリをつけなければならない。相手も痛めつけている自分を疑ってはならない」

 ダマトは、常にタイソンにこう言い聞かせた。そしてダマトを父以上の存在と仰ぐタイソンは練習でも試合でも、教えどおりのことを忠実に実行した。

 ファイティング・マシーンに慈悲の心などいるはずもない。リング上ではひたすら強く、ただパーフェクトでありさえすればいい――それこそがジキル&ハイドの2つの顔を持つダマトが思い描いた究極のファイティング・マシーンの姿であった。

 またダマトはタイソンにこうも言っている。
「恐怖心というのは人生の一番の友人であると同時に敵でもある。それは、ちょうど日のようなもんだ。うまくコントロールできなければ、まわりを燃やしつくして、おまえまで焼き殺されてしまう。逆に、もしおまえが恐れをコントロールできれば、おまえは芝生にやってくる鹿のような用心さを身につけることができる」

 ダマトはタイソンの肉体をサイボーグ化することだけでは飽き足らず、心にまで氷のような冷徹さを求めたのである。

 ダマトがつくり上げたマイク・タイソンという名の1体のファイティング・マシーン。しかし、この「機械」を最高の状態で稼働させるためには、ダマトの意のままに動く部門ごとのスペシャリストがいる。ダマトは精神面を担当するマネジャーに盟友のジム・ジェイコブスを充て、以下、ビジネス面をビル・ケイトン、そして現場でのファイト・プランを直弟子のケビン・ルーニーに受け持たせた。

 このチームは、総司令官たるダマトが創案した最強の布陣だった。チーム・タイソンは、ダマトの号令一下、世界チャンピオンへの道をひた走る。

 1986年11月、トレバー・バービックを破り20歳にして史上最年少の世界チャンピオン(WBC)となったのを皮切りに、翌年10月には、タイレル・ビッグスを破って3王座(WBC、WBA、IBF)を統一、1988年までに35戦し全勝、そのうち31戦をKOで飾っている。ダマトのつくり上げたファイティング・マシーンは、多くのボクサーがある日突然戸惑いを覚える、人を殴り倒しての名声を得るという行為に何ら疑問を感じないまま、当たるを幸いとばかりにKOの山を築き上げていった。

 タイソンは語っている。
「オレは勝ってカスが喜ぶ姿を見たかっただけさ。それだけで満足だった。少なくともオレは世界一チャーミングな男になろうとも、ミスター・ブラック・アメリカになろうとも思っていない。勝てばすべてが解決するとカスに教わっただけなのさ」

 タイソンからダマトへの愛は、強烈なファザー・コンプレックスに裏打ちされた父性愛と言い換えることも可能だろう。タイソンは自分のためでもカネのためでもなく、ただ自分の荒漠たる心を癒やしてくれる愛の提供者のためにのみリングに上がり、闘った。

 ダマトの使徒のなかでも、タイソンの精神面を担当するジェイコブスと技術面を指導するルーニーに負わされた責任は格別のものがあった。心と技――つまりチーム・タイソンの両翼の役割を担っていたと言っても過言ではない。そしてこの2人とダマト、タイソンとの関係を把握しない限り、今回の敗北の真因は見えてこない。

 まずジェイコブスだが、彼は2万6千本ものボクシング・フィルムを所有する世界でも有数のビデオ収集家で、世界中の有名なボクサーのスタイルを研究し尽くしていた。ダマトと知り合ったのは、イワルド夫人によると1952年頃。彼はダマトの最高の理解者であると同時に協力者でもあった。

 ダマトとの関係について、ジェイコブスはこう語っている。
「自分がそのファイターをAと言い、ダマトがBで言えば、そのファイターはBになってしまう。ダマトは“マイク・タイソンこそ世界ヘビー級チャンピオンになる男だ”と言った私はその考えに従うだけであった」

 次にルーニーだが、彼はF1でいうところのチーフ・メカニックであった。1982年には3階級制覇を成し遂げたニカラグアの英雄アレクシス・アルゲリョと対戦(2回KO負け)したこともある。ダマト流ボクシング哲学の忠実なる体現者であり、ダマトから目をかけられていた。

 タイソンを飛行機にたとえるなら、ルーニーの役割は航空管制官。ラウンドごろのインターバルに「5−3−2」「7−4−6」とあたかもプロ野球選手が使う乱数表のようなサインを出すのである。ルーニーと親しいジャーナリストによれば、1から7までの数字は人体の7つの急所を意味しているということだ。

(後編へつづく)
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