1984年12月といえば、さる5日、95歳の生涯を閉じた南アフリカ元大統領のネルソン・マンデラは、まだ獄中にあった。
 当時、日本政府は国際社会と歩調を合わせ、アパルトヘイト(人種隔離政策)を行っていた南アフリカとはスポーツ、文化の交流までも禁じていた。もちろんゴルフも例外ではなかった。
 そんな中、「スポーツに国境はない」との信念の下、南アフリカに旅立ったのが青木功である。目的は総額100万ドルの賞金がかかった「サンシティ・ミリオンダラー・トーナメント」出場。同国の英雄ゲーリー・プレーヤーが主宰する大会だ。青木は会うたびにプレーヤーから「イサオ、今年は来てくれるだろう?」と声をかけられていた。

「プロである以上、招かれれば、世界中どこへでも行く」。それが青木の主義だった。しかし、国の壁は厚かった。当時の外務大臣・安倍晋太郎(安倍晋三首相の父)とは面識があった。大臣室に呼ばれた青木に安倍は「オマエ、どうしても行くのか?」と切り出した。「はい、行きたいんです。先生、ビザを出してください」

 そこへ外務省の役人が口をはさんだ。「青木さん、いかなる邪魔をされても行くおつもりですか?」。即座に青木は返した。「アンタには聞いていない。大臣にお願いしているんだ」。根負けしたのは安倍だった。「オマエは頑固だなぁ。行くと言った以上は行くんだろう。それなら仕方がない」

 29年前の出来事を、つい昨日のことのように青木は振り返る。「あの時の安倍さんの言葉は今でも覚えています。僕の気持ちが通じたのか、安倍さんは、その場で許可を出してくれた。今なら“あんなこと言っちゃって大丈夫かなぁ”と思うけど、僕も若かったんでしょう」

 12月2日夜、青木は北回りで南アフリカに向かった。日本は大変な騒ぎになっていた。「僕を支援していた会社には“なんで南アフリカに行かせたんだ”と抗議が殺到したそうです」

 青木の信念が通じたのだろうか。帰国し、年が明けると南アフリカとの交流制限が緩和された。安倍大臣に挨拶に行くと「オマエが(南アフリカに)行ったからだろう」と肩をポンと叩かれた。アパルトヘイトが廃止されたのは、この6年後のことである。

<この原稿は13年12月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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