6度目の五輪出場を目指すスピードスケーターがいる。42歳の岡崎朋美だ。1994年のリレハンメル五輪から5大会連続で出場しており、98年の長野五輪では女子500メートルで銅メダルを獲得した。通算5度の冬季五輪出場は日本女子歴代最多である。結婚、出産を経て、現在は一児の母となった。岡崎は出産後初の五輪を目指し、今月27日から始まる日本代表選考競技会に臨む。彼女の大舞台に懸ける想いを、7年前の原稿で振り返る。
<この原稿は2006年4月号の『月刊武道』に掲載されたものです>

 100分の5秒だけメダルに届かなかったが、34歳の奮闘は見る側に勇気と感動を与えた。「何色でもいいからメダルが欲しかった」
 これは本心だろう。

 残された結果はトリノ五輪、スピードスケート女子500メートル4位。岡崎朋美の4度目のオリンピックが終わった。
 レース1週間前に37.8度の熱を出した。「カゼをひいたからといって出ないのは自分勝手」。そう言って無理を押して開会式にも出た。主将としての責任感が彼女の背中を押した。

「カゼをひく前までは本当に調子がよかった。体調さえ崩さなければ……」
 長田照正コーチ(富士急監督)はそう言って唇を噛んだ。
 4年に1度の大舞台でコンディションをピークに持ってくることは本当に難しい。
「この経験を人生のいろんなことに役立てたい」。ベテランの言葉には切実な響きがあった。

 1回目、岡崎は得意のスタートダッシュが冴え、最初の100メートルを10秒48で通過。そのまま流れに乗り、38秒46でゴールした。ロシアのスベトラーナ・ジュロワ、中国の王曼利に次ぐ3位。
 そして迎えた勝負の2回目、スケートの刃の先がわずかにスタートラインに触れ、フライングと判定された。

 だが岡崎は動じなかった。仕切りなおしの再スタートは1回目同様、万全の飛び出し。力強い滑りで加速した。最終コーナー、韓国の李相花が追い上げてくる姿が目に入ってしまう。焦りが出た。これが100分の5秒の原因だった。

 以前、岡崎からこんな話を聞いたことがある。
「スタートはギリギリを狙うしかない。あとはそれを(審判が)見逃すか見逃さないか。(ピストル)音が鳴ってからじゃ遅いんです。鳴る前に出ないと。もう時計は回っているんですから……」

 ここで彼女は言葉を切り、キリッとした口調でこう続けた。
「私はそういう勝負をしているんです」

 スピードスケートをはじめて約25年。岡崎はミクロの世界に生きている。すべてを犠牲にしてスケートに打ち込んできたのだ。
 8年前の長野五輪、女子500メートルで岡崎は銅メダルを獲得した。その日はバレンタインデーだった。チョコレートよりも甘いビーナスの微笑みで、26歳の岡崎は一躍、国民的なスターとなった。

 しかし好事魔多し――。長野から2年後の3月、岡崎は練習中、突然、激しい腰痛に襲われた。以前から患っていた椎間板ヘルニアを悪化させたのだった。

 岡崎はトレーニングでは自らを極限状態にまで追い込む。夏の合宿では100段以上続く神社の石畳をスケーティングの低い姿勢のまま一気に駆け上がった。その視線の先には、オリンピックの夢舞台があった。
 練習での無理がたたって持病を悪化させた。手術、そして復帰。薄くなった筋肉は汗が水たまりをつくるほどのスクワットで再生させた。

 ここまでしてオリンピックに懸けるその情熱はいったい、どこから湧いてくるのか。

 岡崎は語っている。
「オリンピックが好きというよりも、オリンピックに至る4年間が好き。確かに苦しいけど、この4年間をどう過ごしてきたかでオリンピックの結果が決まる。そこがたまらないんです」

 年齢を考えれば、残された時間が湯水のごとくあふれているわけではない。
 引退か現役続行か。厳しい判断が迫られている。

 後輩でかつてはライバルの関係にあった三宮恵利子は岡崎をこう評する。
「恋愛かスケートかとなったら、岡崎さんはスケートを選択する人」
 彼女の気持ちは既に4年後のバンクーバーに向かっているようだ。
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