ロンドン五輪で男子日本代表は、準決勝でメキシコ代表、そして3位決定戦で韓国代表に敗れて4位で終わった。
 大会前、里内たちが立てていた6試合を戦うという目標は達成した。サッカー協会の川淵三郎最高顧問からはメキシコ五輪の銅メダルと比べて「自分たちの時の3位とは意味が違う。偉大な功労者だ、ありがとう」と労われた。
(写真:里内は「6試合戦えたことで、いろいろな可能性を試させてもらった」と語る)
 金メダルは凄い。銀と銅は少し落ちるが同じぐらいの価値がある。しかし4位はグループリーグ敗退と大して変わらない――。

 これが里内の正直な思いだった。

 ちょっとした差を超えられなかった原因をいくつも見つけることは可能だった。
 中心選手の永井謙佑の打撲がメキシコ戦に響いた。永井が本調子ならば違った結果になったかもしれない。また、韓国は大会前の7月1日からJリーグ所属の選手たちを、様々な理由をつけて招集し、合宿していた。対して日本は7月14日までJリーグを戦い、そこから準備に入った――。

 しかし、本当に強いチームというのはそうしたものを際で乗り越える。日本はまだ力が足りなかったのだ。

 五輪代表チームが解散した後、コーチだった小倉勉から里内に電話が入った。大宮アルディージャからコーチとして誘われているという。
「大宮はどんなチームですか?」
 かつて大宮にいた里内に小倉は意見を求めたのだ。

「知っているように、(J2に)落ちないことをメインにするクラブや。そして、こういうサッカーをやるというクラブのカラーが出しきれない。その問題の根っこには(選手たちの)帰属意識が希薄だというのがあるんかもしれん」
(写真:大宮の新クラブハウス“オレンジキューブ”の用具室には選手が履く色とりどりのスパイク並ぶ)

 同じさいたま市に浦和レッズという強烈な支持を受けるクラブがある。レッズの選手と比べると、大宮にはとりあえず1年ここでプレーするかという腰かけ的な雰囲気があった。

「現実問題として連勝が出来ない。1つ勝つと、引き分け、あるいは負ける。でも連敗はする。団結する何か、求心力みたいなものがない。メンタルのところに問題があるんちゃうかな」
 なるほどと小倉は頷いた。小倉は9月、大宮のコーチに就任した。

 2012年シーズン、大宮は後半調子を上げ、33節のジュビロ磐田戦で1試合を残して残留を決めた。里内のところに大宮のフィジカルコーチに復帰しないかという誘いが来たのはこの時期だった。

「是非やらせてください」

 大宮ではやり残したことがあった。さらに、チームがいい方向に向かうという確信があったからだ。 

 鹿島アントラーズでの経験から、優勝するチームを作るには、“ピッチ外”のインフラ整備が大切だと里内は考えていた。
 つまり、練習グラウンド、ユース年代の選手のための寮、食堂――。また、クラブハウス近辺にフロント、事務所を含めたチーム機能を集めるべきと考えていた。
(写真:「コンディショニングルームにも充実した設備が揃っている)

 以前、里内が大宮にいた頃、クラブハウス建設の話が出ていた。どのような施設にするか里内も意見を求められている。とはいえ、土地造成の認可等にかなり時間が掛かり、まだまだ先の話だと考えていた。

 しかし、クラブハウスの着工は里内の予想よりも早く進み、2013年から本格稼働することになっていた。

 施設の中には里内が絶対に必要だと主張した仮眠室も設けられていた。午前と午後、2部練習の日がある。午前の練習が終わった後、食堂で食事をとり、仮眠室で休むことで午後の練習がより効果的になるからだ。

 2013年シーズン、大宮は好調な滑り出しだった。前シーズン後半からの無敗記録を続け、第七節で鹿島が持っていたJ1連続無敗記録を更新した。降格争いの常連だった大宮が首位争いに加わることになった。

「痩せ馬の先走り、砂上の楼閣や」
 里内は冗談を飛ばしていた。その好調を後押していたのは新クラブハウスの完成だった。

 明らかにチームの空気が良くなっていた。クラブハウス1階にウエイトトレーニング器具を備えたトレーニングルームがある。練習後、動き足りない選手は汗を流す、あるいはウエイトトレーニングに励む。選手同士が同じ空気の中にいることで団結力が上がっていた。トレーニングルームから練習グラウンドが見えるようにして欲しいというのも里内の提案だった。
(写真:里内が設置を強く要望した仮眠室。他にリラックスルームなどもある)

 しかし――。
 ナビスコ杯は2勝4敗でグループリーグ敗退、7月中旬からリーグ戦でも5連敗を喫した。8月にズデンコ・ベルデニック監督が解任され、コーチの小倉が監督を引き継いだが、チームを建て直すことはできなかった。終わってみれば、14位――。降格争いには加わらなかったものの、昨シーズンよりも順位を1つ下げたかたちになった。

 大宮にはまだ強烈な個性のある選手が足りない。練習の時から選手同士で激しく言い合うほどの関係が必要だろう。勝ちたいと望むがチーム全体からわき上がっているようでなければ優勝争いはできない。

 里内は住友金属から鹿島アントラーズへと変わっていった時期のことを思い出すことがある。

 鹿島の場合はジーコという求心力、存在感のある人間がいた。ジーコは誰よりも負けず嫌いで、自然とチームには勝者のメンタリティが醸造されていった。Jリーグという時代の熱気もあり、一気に勝てるチームへと変わった。

 今更ながらジーコが鹿島で成し遂げたことの重みを里内は感じている。そしてあの場所で、あの空気を共有した自分はそれを伝えなければならないとも思うのだ。
(この項、終わり)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
◎バックナンバーはこちらから