日の丸飛行隊、復活へ――。1カ月後に迫ったソチ五輪、スキージャンプといえば、金メダル大本命の高梨沙羅がいる女子に注目が集まりがちだが、男子も負けていない。今シーズンのW杯開幕戦では団体3位に入り、2年ぶりに表彰台に立った。個人戦でも竹内択、伊東大貴、葛西紀明が好成績を収め、1998年の長野五輪以来、4大会ぶりのメダルへの期待も高まっている。長野で味わった「栄光」、そしてソルトレイクシティでの「挫折」、日の丸飛行隊の浮き沈みを描いたドラマを、06年の原稿で振り返る。
<この原稿は2006年3月の『月刊現代』に掲載されたものです>

 栄光と挫折。絶望と歓喜。失速と大飛行。ジャンプで数々のドラマを作ってきた原田雅彦がトリノ冬季五輪代表に選ばれた。5大会連続出場は冬季五輪史上最多である。

「ノーマルヒルは自信がある。ラージヒルよりは世界との差が小さい」
 原田はそう語るが、現在の彼の実力では表彰台は遠い。日の丸飛行隊はいかにして栄光を掴み、いかなる理由で失速したか。原田の物語をリレハンメルからの大河ドラマを検証する。

「あのとき、僕はビデオを撮っていました。普通なら選手が座っているところが見える。ところが、あのときだけは何も見えなかった。それくらい雪がひどかった。だから、あの1本(のジャンプ)の映像だけは(スキー連盟に)残っていないはずですよ」

 長野五輪ノルディックスキー・ジャンプの元コーチ西方千春は、記憶をたぐるように、おもむろに語り始めた。浅黒い顔の中にたたずむ柔和な視線が8年という歳月の重みを代弁する。あのとき、彼は実に険しい目をしていた。

 1998年2月17日、ノルディックスキー・ジャンプ団体戦(ラージヒル、K点=120メートル)。この日、競技場のある白馬は朝から吹雪に見舞われた。個人ラージヒルが行われた日にははっきりと確認できたシャンツェ後方に聳える山の稜線がこの日ばかりは灰色の空の彼方にくすんでいた。

 気温は氷点下1.5度。吹雪が容赦なく顔を叩きつけていく。南国育ちの私といえば、やっとの思いでノートを取り出しても思うようにペンを走らせることができず、5分もするとノートは水浸しの半紙のようにペラペラになった。
 降り続く雪と突風のため、トライアルジャンプは途中でキャンセルされた。天気のいい日ならカラマツやらスギの間を楽しげに渡っているシジュウカラも、この日ばかりは森の中でじっと息を潜めたままだ。

 競技は予定より32分遅れの午前10時2分に開始された。第1ラウンドの第1グループ、日本の先陣を切ったのは個人ラージヒル6位の岡部孝信。いきなり121.5メートルのK点越えのジャンプ。首位ドイツに9.7ポイント差の2位。十二分に切り込み隊長の役割を果たした。
 2番手は安定感のある斉藤浩哉。個人ラージヒルでは不運の追い風に見舞われ予選落ちを余儀なくされたが、今度は風が味方した。絶好の向かい風に乗り、130メートルの大ジャンプ。テレマークもピタリと決まり、日本は首位に躍り出た。

 ここから舞台は暗転する。一時は期限を直したかのように見えた白馬の女神が再びヒステリーを起こし始めたのだ。
 13チーム中10番目に登場したオーストリアのホルンガッハーが激しい雪と横風にあおられ104.5メートル。フィンランドのエース、アホネンは完璧なテイクオフを決めながら101メートル。続くドイツのイエックレも96メートルに終わった。ワールドクラスのジャンパーたちの失速は気象条件の突然の悪化を意味していた。

 よりによって、ここで出番が回ってくるとは……。貧乏クジを引いたのが原田雅彦だった。断続的に降り続く雪は吹雪に変わり、見る見るうちに助走路には新雪が積もった。視界が遮られただけでなく、助走路でスピードに乗ることも困難になった。こんな条件下で、どうやって飛べというのか。

 振り返って、西方は語る。
「長野でわれわれが一番、力を入れていたのが団体戦。その国の実力をはっきりと示すことができるからです。幸い、このときは原田、船木、岡部、斉藤とコマも揃っていた。われわれこそ世界一だと思っていた。あとは天候との戦いだろうと。その悪い予感がまんまと当たってしまった。まさか、こんなところで(吹雪になるなんて)……。あれで飛べというほうが無理ですよ」

 どんな悪条件であろうが、ジャンパーは信号が青に変われば、それから15秒以内にスタートしなければならない。原田の名前がコールされた瞬間、吹雪が逆巻く濁流となってシャンツェを駆け上がった。原田は助走路のどの部分にいるのか。テイクオフはうまくいったのか。空中での飛行姿勢はどうなのか。白いベールと化した吹雪が視界を遮る。と、そのとき、原田の姿が亡霊のようにフッと現れ、P点(90メートル)のはるか手前で力なく沈んだ。

 電光掲示板に映し出された飛距離は、わずか79.5メートル。3万5000人の大歓声は瞬時にしてため息に変わった。この“失速ジャンプ”で日本はオーストリアに首位の座を明け渡した。

 この直後、原田の口から“迷言”が飛び出した。
「屋根ついていないから、しょうがないよね」

 最も安定したジャンプを誇るアンカーの船木和喜も118.5メートルと失速。日本は4位に沈んだ。
「こんな条件で飛ばせておいて公平な競技と言えるのか!」
 手に1万円札を握り締め、ジュリー(審判団)のいる部屋に飛び込んだのがヘッドコーチの小野学だ。
「ジュリー会議の招集をお願いする」

 ナショナルチームの首脳陣がジュリー団に異議申し立てするには100スイスフランが必要となる。国際スキー連盟独特のルールだ。抗議が認められれば、原田はもう1回飛ぶことが可能になる。

「実はあの1万円、私のポケットから持っていったんですよ」
 苦笑を浮かべて西方は言った。
「助走路で得られるスピードに時速2キロの差があれば、やり直しを要求することができる。小野さんはそこを主張したんです」

 手元にデータがある。助走路のスピードは10番目のホルンガッハーが時速89キロ、11番目のアホネンが89.3キロ、12番目のイエックレが88.8キロ。これに対し、原田は87.1キロ。これは全ジャンパー中、最も遅いスピードだった。

 しかし、ジュリー団は多数決の結果、3対1で日本の異議申し立てを否決。西方のポケットから取り出した1万円は“捨てガネ”になってしまった。このとき、原田はこう思ったという。

「正直言って、また(リレハンメルのときと)同じ状況が来てしまったんだと思うと、本当に辛かったですよ」

(中編につづく)
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