中山美幸(アイスホッケーレフェリー)<前編>「日本人女性第1号」

(写真:バンクーバー五輪では5試合で笛を吹いた)
「おう、良かったなぁ。おめでとう!」
09年9月のある日のことだ。試合会場で日本アイスホッケー連盟の役員に、そう声をかけられた。だが、中山にはその言葉の意味がわからなかった。
「何のことでしょう?」
不思議そうな表情を浮かべる中山に、今度は役員が驚いた。
「あれっ!? まだ聞いてなかったんだ。オリンピックでのラインズマンに決まったぞ!」
その言葉を聞いて、中山はほっと胸をなでおろした。実は、人知れずプレッシャーを感じていたのだ。
「夏ごろに世界の女子レフェリーを統括する方が来日した際、『ほぼ決定ですよ』というふうに言ってくれていたということは聞いていたんです。でも、長野オリンピックを除けば、これまで日本人女性は一人も選ばれていませんでしたから、ぬか喜びはできませんでした。最後までわからないぞ、と。ところが、周囲からは『もう、確実だろう』なんていう声もありました。だから『これで決まらなかったら、どうしよう……』とプレッシャーもあったんです。決まったと聞いた時は、本当に嬉しかった。でも、まだ夢のように感じていましたね」
不思議な相性の良さ
約半年後、中山はバンクーバーの地に降り立った。そして、世界から集結したレフェリー、ラインズマンと最初に視察で訪れたのは、「カナダ・ホッケー・プレイス」(現ロジャース・アリーナ)、ナショナル・ホッケー・リーグ(NHL)のバンクーバー・カナックスの本拠地だった。
「私、こんなすごいところで笛を吹くんだ……」
中山は、高揚感を抑えることができなかった。目の前には今まで、遠いテレビの世界が広がっていたのだ。これまで見たことのないスケールの大きさに、中山は度肝を抜かれた。と同時に、「こんなところで笛を吹けるんだ。なんだか、ワクワクしてきた!」と嬉しさがこみあげてきた。
開幕戦を含め、中山は予選リーグから準決勝まで4試合、ラインズマンを務めた。緊張で押しつぶされるという感覚はまったくなく、「楽しくて、楽しくて、仕方なかった」という。4年に一度の大舞台を、中山は存分に味わっていた。なかでも最も印象に残っているのは、あるひとりのラインズマンとの相性の良さだった。
「デンマークのラインズマンだったのですが、それまで一度も一緒にやったことはなくて、オリンピックで初めてペアを組んだんです。それなのに、はじめから阿吽の呼吸でした。本当にやりやすくて、特に『こうしよう、ああしよう』なんていう言葉はまったく要らなかった。アイコンタクトだけでお互いに理解し合えたんです」
それは評価にも表れていた。アイスホッケーはレフェリー1人、ラインズマン2人でジャッジを行なう。そのジャッジは毎試合、スーパーバイザーによって評価され、点数がつけられる。その評価が、オリンピックをはじめとした国際大会への召集、さらに大会の中でも決勝や3位決定戦をどのレフェリー、ラインズマンにするかの指標となるのだ。中山とデンマーク人のラインズマンがペアを組んだ試合は、その評価が高かった。さらにスーパーバイザーには「あなたたち、本当に楽しそうにやっていたわね!」と声をかけられたという。
「やっぱり相性ってあるんだなぁ、と思いました。彼女が特に高いスキルを持っていたかというと、そうではなかったんです。ラインズマンに欠かせないスケーティング技術も、決して巧いとは言えなかった。それでも、ピタッとフィーリングが合ったんです。本当に不思議な体験でした」
一瞬の悔しさから喜びへ
「Miyuki! おめでとう。良かったわね」
女子アイスホッケー最終日を明日に控えた日、他国のラインズマンからそう声をかけられた中山は、キョトンとした。
「ん? 何が?」
「えっ!? 明日のシフト表、見てないの?」
聞けば、各部屋にシフト表が配布されているという。しかし、中山の部屋には届いていなかった。
「まだ見ていないんだけど……」
「あなた、3位決定戦に選ばれたのよ。おめでとう!」
その言葉に、中山の顔は曇った。彼女が目指していた舞台とは違っていたからだ。
「決勝で笛を吹きたいという気持ちがあったので、3位決定戦ということを聞いて、ちょっと悔しさを感じたんです」
中山の納得していない様子に、周りは不思議がった。
「なぜ、Miyukiは喜ばないの?」
そう言われて我に返った。確かに、そうだった。よく考えてみれば、最終日に笛を吹くことができるラインズマンは、わずか4人しかいないのだ。しかも、3位決定戦でペアを組むことになったのは、あの抜群の相性をもつデンマーク人だった。徐々に喜びと感謝の気持ちが沸きあがってきた。
翌日、銅メダルをかけて行なわれた3位決定戦は、準決勝までとは比べものにならないほどの盛り上がりを見せた。試合はヒートアップし、会場のボルテージは上がる一方だった。熱気が漂う中、中山は最後のジャッジを存分に楽しんだ。
「オリンピックは、とにかく観客の多さや盛り上がり方が、どの国際大会とも違いました。『あぁ、これが4年に1度の舞台なんだな』と痛感しましたね。3週間、十分に楽しむことができました。いろいろと勉強することもできましたし、私にとっては最高のオリンピックでした」
だが、ここまでに至る道のりは、決して平坦ではなかった。女性だからという理由で、悔しい思いもたくさんしてきた。それを乗り越えながら、中山は一歩一歩、階段を上がってきたのだ――。

東京都生まれ。中学時代はバレーボール部、高校時代はバドミントン部に所属。高校3年の冬、姉の影響でアイスホッケーを始める。大学卒業後は語学留学のためにカナダへ渡り、勉強の傍ら、地元の大学チームでプレーした。帰国後の2006年、都内のチームで活動していた際、連盟からの「1チーム1人」という派遣要望に、自ら志願してレフェリーを兼任する。07年には世界選手権ディビジョン1、08、09年には同大会トップディビジョンのラインズマンを務める。10年バンクーバーでは海外開催大会で日本人女性初のラインズマンとして五輪の舞台を踏んだ。
(後編につづく)
(斎藤寿子)