開会式が2日順延されたのは、96回目を迎えた夏の甲子園史上、初めてのことだという。この先の天候は大丈夫か。
 雨といえば、思い出すのが1975年の大会だ。私も高校生だったので、よく覚えている。大会期間中、2つの台風が列島を直撃し、計5日間も順延された。
 最も長い大会を制したのは千葉県代表の習志野だった。エースは現東京ヤクルト監督の小川淳司。「僕にとっては恵みの雨でした」と39年前を振り返る。「準決勝の広島商戦、試合途中でドシャ降りとなり、1時間47分の中断があったんです。これがいけなかった。再開してマウンドに上がると肩が上がらない。たまたま試合には勝ったものの、翌日の決勝が不安でした」

 翌朝になっても右肩から痛みは消えなかった。大会期間中、ずっと肩の痛みに悩まされてきたが、連投により、うずくような不気味な痛みに変わっていた。意を決して監督の石井好博に告げた。石井自身、習志野のエースとして67年の夏、チームを全国優勝に導いている。「今日は肩が痛くて投げられません。投げたら皆に迷惑をかけてしまいます」。即座に「バカヤロー! オマエ以外に誰が投げるんだ」と一喝された。

 決勝の相手は愛媛県代表の新居浜商。甘いマスクのエース村上博昭がチームを牽引していた。小川同様、村上も右肩に不安を抱えていた。「大会前から肩の調子はよくなかった。全身に100本の鍼を埋め込んで甲子園にやってきたんです。大会中も必ず宿舎近くの整骨院で治療を受けていました」。後に法大の指揮を執る監督の鴨田勝雄は、この時、まだ35歳。血気盛んな青年監督だ。「恐くて痛いなんて言い出せませんでしたよ」

 大会期間中に発生した台風6号の影響で決勝は2日続けて順延された。この2日間、小川はキャッチボールもやらなかった。正確に言えば、できなかったのだ。「決勝でも痛みは残りましたが、完全休養のおかげで肩は動いた。だから、どうにか完投することができたんです」。村上も同様だった。「あの2日間のおかげで体力が回復し、名勝負になったと思うんです」

 試合は追いつ追われつの好ゲームとなり、習志野がサヨナラ勝ちを収めた。優勝の瞬間、小川の脳裡に真っ先に浮かんだのは、次の思いだった。「もう、これで投げなくていいんだ……」。試合後の甲子園には赤とんぼが舞っていた。

<この原稿は14年8月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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