今年のプロ野球のドラフト会議では、育成選手も含め、計104名が指名を受けた。果たして、ダイヤモンドの原石たちは、プロの世界で輝けるのか――。各球団のスカウトたちの先見の明が問われる。プロ野球の名スカウトといえば、日本ハムで20年以上に渡り、選手を獲得してきた三沢今朝治(現BCリーグ信濃代表取締役社長)もそのひとりだ。ゴールデングラブ賞6度の島田誠、1988年の最多勝投手・松浦宏明らをスカウトした。その後、球団社長補佐として新庄剛志、稲葉篤紀の入団交渉に深く関わり、北海道に定着した現在のチームの礎を築いた。逸材発掘にかけた三沢の情熱を、23年前の原稿で振り返る。
<この原稿は1991年4月号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 日本ハムファイターズに松浦宏明というピッチャーがいる。1985年にドラフト外で、千葉の船橋法典高から入団した彼は、88年、15勝(5敗4S)をあげ、ドラフト1位組の渡辺久信(西武)、西崎幸広)日本ハム)とともに最多勝に輝いた。

 契約金、わずか1千万円の最多勝利投手――。三沢今朝治は千葉のとある球場で、初めて松浦を見た時のことを今でも鮮明に覚えている。
「実は、松浦とは違う高校のバッターに目をつけていたんです。その目的の選手の高校が出てくる前に船橋法典高の試合があり、松浦が投げた。体は小さいが、実に切れのいいボールを投げる。聞けば、まだ2年生だという。それから、彼をマークし始めたんです」

 甲子園出場経験の無名校のエースということもあって、他球団のスカウトは、彼の将来性に疑問を投げかけていた。そして、3年の春には肩を痛めたものだから、これを機に松浦の株は急落する。

 しかし、三沢はマークを緩めなかった。理想的な投球フォームが脳裡に残っていたからである。そして3年生の秋、三沢は「プロでやってみる気はないか」と、初めて声をかける。

「チャンスがあれば、ぜひやらせて下さい」
 松浦は静かだがはっきりとした口調で、そう答えた。

「バッティングも良かったので、最初はもし投手でダメでも野手に転向させればいいや、と思っていたんです。それで、本人に“オマエ、投手でやるのか、打者でやるのか?”と、とりあえず訊いてみた。すると、彼は“絶対に投手でやる”と言い張る。その時、“コイツは成功する”という予感がしましたね」

 三沢は目を細めながら、さらにこう続けた。
「松浦が2年目で初勝利をあげた時は、本当にうれしかった。夜のスポーツニュース、朝のスポーツ新聞には全部目を通しましたね。その日、松浦のご両親から“三沢さんのお陰です”と言われたことが未だに忘れられない。何とも言えん気持ちだったですね、あの時は……」

 1963年、三沢は駒沢大から東映フライヤーズに入団する。当時、東映には張本勲、土橋正幸、尾崎行雄を筆頭に吉田勝豊、西園寺昭夫、ジャック・ラドラ、種茂雅之……と、名だたるサムライたちが名を連ねていた。

 三沢は入団後、すぐ1軍の伊東キャンプに参加。「プロの世界ってこんなもんだったか!?」 と見くびってしまう。

 しかし、いざシーズンが始まると、プロのピッチャーたちはアマチュア時代には見たこともないボールを投げてきた。最初の3年間は、ほとんどファーム暮らし。4年目に阪急のエース・米田哲也から、サヨナラの場面でプロ入り初ホームランを放ったものの、レギュラーの座を射止めるまでにいたらなかった。
 三沢が最も光ったのは、1969年のシーズン。規定打席には大幅に届かなかったものの、103打数で39安打をマーク、3割7分9厘というハイアベレージを残した。

 1974年のシーズンを最後に現役生活に別れを告げた三沢は、自ら希望してスカウトとなった。しかし、当時の日本ハムには三沢を含めて2人のスカウトしかいなくて、目の回るような日々が続いた。
「当時は年に3分の1くらいしか家にいなかった。特に試合のある土、日はほとんど家にいない。だから、娘たちの父兄参観日に出席することができないんです。それで、よく女房からは“ウチには父親はいないも同然”と嫌味をいわれたもんですよ」

 こんな裏話もある。
「狙った選手がいる時には、ホテルに泊まる場合でも会社の名前を書かないんです。どこでアシがつくかわかりませんからね。会社や家族にだって、どこへ行くとははっきり言いませんよ。丸っきり隠密行動。実はこんな笑い話があるんです。他球団の関係者から探りを入れる電話がかかってくることもあるため、子供には“父さんはいませんと言いなさい”とクギを刺しておいた。そこへ、会社から至急の電話がかかってきたんです。しかし、子供は“父さんはいません”の一点張り。これには会社も相当参ったようですがね。ハッハッハッ」

「人気のセ・リーグには負けたくない。特に、巨人に対しては特別な執念を燃やしたものです」
 今でこそアマチュア選手の巨人志向は薄らいできていると言われるものの、三沢がこの仕事に就いた頃は「日本ハム? そんなとこに息子はやらねぇよ。セ・リーグの球団じゃないとね」と、あからさまに拒否されることも少なくなかった。

 しかし、そこで諦めてしまったのではスカウトは務まらない。三沢は番地まで調べて選手の父母に会いに行き、交渉の糸口を見い出しにかかる。
「まず、自分がどれだけその選手にほれているかということを切々と訴えかけるんです。そこで、ありったけの熱意を選手や親御さんにぶつける。“あそこに任せたら大丈夫”と思われるようになったら、もうしめたもの。粘りと執念。この2つがないとスカウトは務まりません」

 巨人一辺倒の選手に対しては「キミの気持ちもわからないではないが、ファンでいることと仕事は違うんだよ」と、根気強く説得する。断られても断られても、辛抱強く足を運ぶ。元防御率1位の岡部憲幸、日本ハムの核弾頭として長く活躍し、今季からダイエーに移った島田誠、成長著しい俊足巧打の嶋田信敏らは、いずれも根気強い説得の末、三沢が獲得したドラフト外の選手たちである。

「残念ながら、指名権を西武にとられてしまったんですけど、清原の家にも何度も足を運びました。彼の家族は巨人志望が非常に強かったんですけど、最後には“三沢さんのところなら仕方ないや”と言ってくれた。これも思い出深い交渉だったなァ」

 ダイヤモンドの原石を探して全国を旅する。安定や待遇ばかりが喧伝される風潮の時代にあって、これほどロマンチックな仕事もないのではないか。
 好きな仕事をしている男の目は、例外なくキラめいている。
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