マラソンの季節がやってきた。福岡国際マラソンは7日正午に号砲が鳴る。来年の世界選手権(北京)日本代表選考会を兼ねており、中本健太郎(安川電機)、藤原正和(ホンダ)ら国内の有力ランナーが出場する。70年近い歴史を持つ福岡国際マラソンは、これまで多くの名勝負やニューヒーローを生んできた。中でも1987年の第41回大会はソウル五輪の代表選考会として注目を集め、中山竹通は独走優勝を果たし、出場権を手にした。“反骨のランナー”呼ばれた彼のキャラクターを、14年前の原稿で振り返ろう。
<この原稿は2000年の発行の『1ミリの大河』(マガジンハウス)に掲載されたものです>

 冬の風物詩といえばマラソンだ。

 今回マラソン取材の中で、一番思い出深いレースを紹介してみたい。
 1987年12月6日。
 第41回福岡国際マラソン。
 この大会は「ソウル五輪代表選考会」と銘打たれていた。

 恐ろしく寒い日だった。
 レースが始まる前から冷雨がアスファルトを叩きつけていた。
 このレースを制したのは27歳の中山竹通だった。

 大会タイ記録の2時間8分18秒――。
 文字どおり、ぶっちぎりの優勝だった。

 ソウル行きのチケットを手にしたその夜、私は中山と博多の街で食事をした。
「あんなちょっとの距離を走っただけでオレに勝ったと思っているんですかね」
 唐突に中山は言った。

 あんなちょっとの距離?
 オレに勝った?
 いったい何のことかと思っていぶかしがっていると、中山は歩道をほんの2、300メートル並走し「中山に勝った」と言って騒いでいた市民ランナーのことを言っているようだった。

「オリンピックに出るランナーが、そんなこと気にしなくてもいいじゃない」と、取り巻きがなだめると、「でもああいうヤツはずっと“オレに勝った”と言い続けるんだよな」と、苦々しい表情で答えた。

 中山竹通をして「反骨のランナー」と人々は呼んだが、走ることに関して彼ほど純粋な男はいなかった。そして、強かった。

 この島国において最高にして最強のランナーは誰か? と問われれば「中山竹通以外には考えられない」と私は答えることにしている。

 レース前、中山が口にしたとされるある一言が世間を騒がせていた。
「這ってでも来い!」
 ライバル瀬古利彦に向けた啖呵だった。

 足の負傷を理由に瀬古は福岡マラソンを欠場した。そんな瀬古に対し、“救済レース”を用意すると陸連は発表した。

 それが一本気な中山には我慢ならなかった。
「僕は瀬古さんに“這ってでも出てこい!”なんて言っていない。“僕なら這ってでも出ます”と言っただけなんです」

 そう断ったあとで、中山は舌鋒鋭くまくしたてた。
「瀬古さんはケガをする前、“自らのコンディションをちゃんとできないような人間は福岡を走る資格はない”と言ったんです。
 それなのに欠場していながら、またチャンスをくれというのはおかしいわけでしょう。“神が与えた試練”だとか言ってますけど、確かにそれは神様が与えた試練なんですよ。多少のハンディはあってもその体で福岡に出て、勝ってオリンピックに出ることが試練なんですよ。それは神が与えたものかもしれないんだから。
 しかし、瀬古さんは、その試練に耐えようとしなかった。それだったらオリンピックを諦めるより他に方法がないでしょう。
 というと“中山が瀬古を批判している”とすぐ怒られちゃうんですけど、ぼくは宗さんたちを批判しているか、伊藤国光さんを批判しているかといったらしていないわけですよ。
 瀬古さんだけがひとりズレた行動をするからおかしいと言っているだけなんです。他の人は皆、日本陸連という集団の中でそれなりにやっている。
 ところが瀬古さんひとり、いつもそこからはずれた行動をとろうとする。それはやはり社会的な通念からすると通らない行為ではないかと、そう言いたいだけなんです」

 有言実行――。

 それが中山竹通というランナーの真骨頂だった。
 もし、彼が今も現役だったら“中山語録”は『中田語録』なみのベストセラーになっていたに違いない。

 古い取材ノートから。
「どうすれば8分台を出せるか、あるいは6分台を出せるか。そのための練習方法は自分自身で見つけ出さなくちゃダメなんです。
 たとえばトラックの練習をする際、日本の選手はほとんどが一番内側の1コースを回るでしょ。
 でも本当はこういうのはまったく意味がない。なぜかというと、トラック走の場合、1コース、つまり最短距離を走れる選手が強い選手と決まっている。弱い選手はどうしても外へはじき出され、必然的に2コースを走らなければならなくなる。
 だから、弱かった頃、僕は2コースを走る練習ばかり繰り返していた。こういうことって誰かが教えてくれるものじゃない。でも、その方がはるかに実戦向きでしょう。僕はすべてそういう方法でマラソンを学んできたんです」

「ケガして満足に走れないのにレースに出たこともありますよ。その時は記録も優勝も無理だと思っていた。でも僕は悪いなら悪いなりにベストの記録を狙って走った。一度そういう経験をしておけば、いつかアクシデントが起こったとしても慌てないですむでしょ。
 だから僕は途中で振り返ってやめるようなランナーの存在を認めるわけにはいかないんですよ」

「トップで走っている人間は、前に誰も人がいないわけですよね。そのときに何が見えるかといったら道路と景色しかない。ところが一歩下がると、道路と景色の他に選手の姿が見えてくるんです。
 そしたら、また違ったことが頭に浮かんでくる。押してもダメなら引いてみろ、って言葉があるように、時には人間、引くことも大切なんです」

「僕が教わった言葉の中に“楽な時は後ろに下がれ、キツかったら前へ行け”というのがあるんです。実際、楽な人間というのは後ろにいてもいいんですよ。いや、むしろその方がいい。
 チームの仲間と集団で走っていても、僕が後ろにいると皆、安心するんです。そのかわり30キロを過ぎると当然キツくなるから、そしたら前へ出て皆を引っ張っていってやらないといけない。それが本当のチームの姿だとは僕は思うんです」

「条件や場所まで選んで記録を残そうとは思わない。記録だけ狙うんだったら、室内でちゃんと冷却装置を使って空気を冷却し、10度くらいの温度をつくって、湿度を何パーセントかに保たせる。そういうのを42.195キロつくればいいわけですよね、極端な話。
 でもそこまでもすると、もうレースとは言えないんです。自然との闘いがあるから記録も面白いんであって、人工的な処理されたコースを通ったところで、何のドラマも生まれてこない。
 突風が吹けば、追い風が吹くこともあるだろうし、向かい風もあるだろう。だからこそマラソンは面白いと思うんですよね。
 でも、それをいうなら人生の方がもっと面白いし難しいかもしれませんよ。マラソンはある程度、展開をつくれますけど、人生はそういうわけにはいきませんからね」

 中山竹通はレースでの駆け引きを嫌った。

 この時の福岡国際がそうだったように、早めに飛び出し、後続を振り返ることなくテープを切るシンプルなレースを生き甲斐にしていた。
 まるでゲートインと同時に飛び出し、一度も後塵を拝することなくゴールにとびこむ夭逝したサラブレッド、サイレンスズカのような走りっぷりだった。

 野球にたとえていえば、ストレート一本槍の剛球ピッチャー。変化球で打たせてとるピッチングを好まず、相手が誰であろうと真っ向から快速球を投げ込んだ。

「力で牛耳りたい」
 中山の走りからは、そんな哲学を充分に感じ取ることができた。
 何人たりともオレの前を走らせない――。

 中山は口ぐせのように、そう言った。
「僕は何が嫌といって、他人のお尻を見て走ることほど嫌なことはないんです。確かに同じトップグループでも、トップを走るのと2、3番手を走るのとでは全然、負担が違う。そりゃ、2、3番手につけ、最後にヒュッと抜け出す方が楽ですよ。
 だけど、強い人間がグイグイ集団を引っ張るようなレースをしないと、いつまでたっても記録は伸びないんです。優勝者の名前は時がたてば忘れ去られてしまうけど、記録は永遠に残る。僕はいつでも記録に対する挑戦者であり続けたいと思っているんです」

 あれから12年――。
 世界のマラソンシーンは、まさに中山の予言していたとおりになった。

 今や駆け引きがあるのは平凡なレース。スタートと同時にハイスピードでチャージをかけ、駆け引きではなく、スピードで相手を圧倒し、振り落としにかかる。
 翻って日本の男子マラソンは、まだまだ護送船団方式。群れ(グループ)に入ってしまったら、なかなか先に仕掛けようとはしない。
 相手が潰れるのを待っているうちに仕掛けるタイミングを逃し、本命が後続の中に埋没してしまうことが少なくない。

 指導者となった中山竹通は今、どんな思いで、日本のマラソンランナーたちを見つめているのだろう……。あの“毒舌”が妙に懐かしい。
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