横浜から戦力外通告を受け、埼玉西武ライオンズへの入団が決まった工藤公康投手が16日、球団事務所で入団会見を行った。背番号は長年慣れ親しんだ「47」ではなく「55」。年俸3000万円+出来高払い(推定)の1年契約で合意し、後日、正式契約を結ぶ。16年ぶりの古巣復帰となった工藤は「ワクワク感とドキドキ感が入り交じっている感じ。しっかりやろうという気持ちです」と思いを語った。
(写真:「似合っているかな?」と西武のユニホーム姿でポーズをとる工藤)

▼二宮清純特別寄稿「46歳・工藤公康が“平成の江夏豊”になる日」を公開!
 16年前とは何もかもが変わった。ひさびさに帰ってきた所沢の本拠地は屋根のない西武球場からドームへと変貌を遂げた。古巣のユニホームといっても当時とはデザイン、色とも大きく違う。そしてチームの指揮を執るのは、「ナベ」と呼んでいた2つ下の後輩、渡辺久信だ。それでも工藤は古巣への変わらぬ愛着を口にした。
「僕は運が強いと思っている。ライオンズに入って1年目で優勝して、13年間で11回優勝して、8回日本一になった。ライオンズが一人前にしてくれたおかげで、ここまでやらせてもらった。そして、今ここに座れているんだと思っている」

 チームを離れても、ライオンズの様子は気になっていた。だからこそ、今回真っ先に手を挙げてくれたことがうれしかった。
「渡辺監督を含めて、選手が頑張っている。チームが若くて力をもっている印象がある。(46歳)の自分が入ることにとまどいはあるが、自分の力で少しでも勝てるのであれば頑張りたい」
 楽天からもオファーがあったが、自らの原点である場所に戻る選択をした。

 再出発にあたって背番号は「55」を選んだ。プロ入り以来、ダイエー移籍後の2年間を除き、一貫して「47」を背負ってきたが、西武では先発ローテーションの一角を占める帆足和幸がつけていることもあり辞退した。球団から提示された空き番号の中から、子供たちがそれぞれ紙に書いて工藤の背中に貼り、どれが似合うかを相談した。

「これがいい!」
 子供たちが選んだのが「55」だった。
「イケイケゴーゴーだ!」
 そんな齢ではないと思いながらも、5月5日は工藤の誕生日。さらにはダイエー時代の同僚で、2000年に肺ガンのため亡くなった藤井将雄投手の背番号が「15」であったことも、「55」を選ぶ決め手となった。
「彼と同じ“5”という数字が入っている。彼の分も野球を続けていこうと思っているので、その番号を1つ背負うのもいいのではないか」
 天国の友へ、この背番号で1年でも長く現役を続けることを誓った。

 現在46歳の工藤は渡辺監督(44歳)、橋本武広(45歳)、潮崎哲也(40歳)両投手コーチよりも年上にあたる。投手陣への“教育係”としての役割を望む向きもあるが、本人は「アドバイスをするために来たのではない」と言い切った。「彼らの持っている力と僕の力をプラスしたい。聞かれたら答えるし、知りたいことがあれば教える。でも基本は競争の世界なので負けないようにしたい」。まずは一選手として、チームの力になることを宣言した。

 前田康介球団本部長も「純粋に戦力として獲得した。左の中継ぎは手薄で課題だった。彼には戦力として長くライオンズでやってほしい」とマウンド上での活躍を期待している。「先発でも中継ぎでも抑えでも、行けと言われたところは、どこへでも行く。それが選手の役目」。今季、リリーフに転向したことで、ブルペンでの調整法も体得した。あと経験していないのはクローザーくらいだ。

 来季はプロ野球史上最長となる29年目のシーズン。ここまで長く続けられた理由を工藤は「運」と表現する。
「野球はどんなにいい当たりでも正面を突けばアウトになる。運は大事。でも運だけではなくて、実力でライオンズが日本一になれるように貢献したい」
 もちろん「運」だけでは45歳を超えて現役は張れない。「コンディショニングを保つためにも練習したい。練習場所をどう確保するかを考えている」。ベテランは既に来季を見据え、始動している。“ハマのおじさん”から“イケイケゴーゴー”。18歳でプロ入りした場所に舞い戻り、左腕は身も心も若返っていきそうだ。

(石田洋之)

 46歳・工藤公康が“平成の江夏豊”になる日(前編) 〜二宮清純特別寄稿〜

「あそこで投げたことに意味があると思うんです」
 淡々とした口調で工藤公康は切り出した。

「気持ちの切り替えは難しくなかった。家族やファンに対して、ヤル気のない姿だけは見せたくなかったんです」
 9月13日、甲子園球場での阪神戦。このゲームは工藤にとって特別な意味を持っていた。実は試合前、横浜球団の幹部からクビを通告されていたのだ。
「僕らの立場でキミのことをどうする、こうするとは決められないんだよ」
 持って回ったような言い方だったが、既に結論は出ていた。
「あぁ、そういうことですか。わかりました。僕はまだ現役を続けたいので自由契約にしてください」
 会話はそこで途切れた。

 8回、リリーフのマウンドに立った工藤は3番・鳥谷敬をショートゴロ、4番・金本知憲をショートフライに打ち取り、ベンチの期待に応えた。46歳はまだ自らの左腕が錆びついていないことを見事に証明した。
 だがマウンドを降りる際、工藤の脳裡をよぎったのは来季のことではなく、家族のことだった。
「クビになったことを、どうやって伝えようか。“ショックだ。もうどうしようもない”そんなみじめな姿だけは家族に見せたくなかったんです」

 その夜は一睡もできなかった。翌日、朝イチの新幹線で横浜に帰った。
「最初に嫁に言おうと思ったんですが、顔を見たら言い出せなくて……」
 家にいるとバレそうなので、近くのパチンコ屋に出かけた。球を弾きながら切り出し方をあれこれ考えた。だが、妙案が浮かばない。モヤモヤした気分のまま家に帰ると夫人と目があった。
「なんか仁志(敏久)君が(解雇を)通告されたらしいじゃない?」
「あぁ、そうらしいね。実はオレもなんだよ」
「えっ、そうなの?」
「で、パパはどうするの?」
「オレは来年も現役を続けるよ」

 夫人はその場で、5人の子供のうち、家にいた3人を集めた。
「パパ、クビになっちゃったんだって。でも心配しなくていいのよ。パパはまた来年も頑張ると言っているから」
 黙って聞いていた小さな子供たちは、自分たちの部屋に戻ってから一斉に泣きだした。悪いことをしたとは思ったが、もらい泣きすることはなかった。
 それは父親の教えに依る。
「オヤジから、いつも言われていました。男は人生で3回しか泣くなって。そのうちの2回は親が死んだ時。あとの1回は初めて子供が産まれた時だと。だから野球で日本一になった時も、僕は1回も泣いたことがない。えぇ、これからも泣かないでしょうね」

 通算224勝140敗3セーブ、リーグ優勝には14回、日本一には11度輝いている。西武、ダイエー(現ソフトバンク)、巨人、横浜と4球団を渡り歩き、今年の5月にはセ・リーグ最年長勝利記録を更新した。
 生き馬の目を抜くプロ野球の世界で28年間も現役を張り続けたのは奇跡と言っていい。かくも長きに渡って生存競争を生き抜いてきた原点はどこにあるのか。

 工藤は名古屋市南区の決して裕福ではない家庭で育った。父親の光義は市バスの運転手だった。工藤は異母兄弟も含めて5人兄弟の4番目。上には3人の兄がいた。
 夕食はいつも戦争だった。丸い卓袱台の上に、大きな皿がポンと置かれる。その上に人数分のおかずが盛られていた。
 年の近い4人の兄弟は先を争って箸でおかずをかき込んだ。自力で奪い取った分だけが胃袋への供給物となるのだ。この争いに負けると、一晩中、腹をすかせて泣くはめになる。

 公康少年には2つのハンディキャップがあった。ひとつは年の近い4人の中で、最も幼いということ。もうひとつは彼が左利きだったことである。
 振り返って工藤は語る。
「左利きでも字を書く時と箸を持つ時は右手を使えとしつけられました。そうは言っても子供の頃から、うまく右手が使えるわけがない。ウジウジしているとオヤジに叱られる。ウインナーなんてつかめないから突き刺そうとすると、もっと叱られる。
 あぁ、なんでオレだけ左利きなんだ。右利きだったら負けないのに……。何度、親を恨んだことか。結局、僕が口にできるのは目の前にあるご飯と味噌汁だけ。空腹で寝付けない夜もありました」

 父親は機嫌が悪くなると卓袱台をひっくり返した。工藤によれば劇画『巨人の星』の星一徹がそのまま服を着て歩いているような人物だった。
 野球が大好きな父は機嫌が良ければ公康少年をキャッチボールに誘った。
「さぁ、来い!」
 ボール、またボール、次はワンバウンド……。
「もう、やめじゃ!」
 顔色が一変するのに時間はかからなかった。
 工藤の回想――。
「考えてもみてくださいよ。小学校に上がったばかりの子が、そんなにたて続けにストライクを投げられますか。こっちはワンバンを投げるたびに、もうヒヤヒヤですよ。家に帰ると案の定、オヤジが怒り狂っている。その日の家庭は真っ暗でした」

 高校は強豪・名古屋電気(現・愛工大名電)へ。3年の夏、甲子園に出場した工藤は、いきなり初戦の長崎西戦でノーヒット・ノーランを達成する。
 左腕から繰り出される切れのいいストレートとブレーキのきいたカーブで三振の山を築きあげた。高校生とはいえ、すぐにでも使えそうなサウスポーをプロのスカウトが放っておくわけがない。

 卒業後は社会人野球の熊谷組へ進むことになっていた。決めたのは父親だ。ところがドラフト会議で西武が6位で指名する。西武との密約説が取りざたされた。
 だが、これは事実ではない。密約が存在していたら、18歳の工藤がこんな修羅場に遭遇することはなかっただろう。
「忘れもしませんよ。根本のオヤジ(根本陸夫管理部長=当時)に初めて会ったのは近くの『かに道楽』。ウチのオヤジが僕の横に座り、根本のオヤジが対面に座っている。
 2人ともにらみ合ったまま視線をそらそうとしない。一触即発とはあのことです。なにしろ一言も話さないんだから。せっかく目の前にカニがあるのに箸もつけられない。ヤクザの手打ち式じゃないのに……と思いましたけどね(笑)」

 根本といえば球界の大立者。学生ヤクザだった安藤昇とは無二の親友で、日本プロ野球界における実質的なゼネラル・マネジャー(GM)第1号でもあった。
「それから、しばらくたったある日のことです。夜中にオヤジに叩き起こされた後、こう告げられた。“オマエを西武にやることにした。今日から根本さんがオマエの東京の父親だ”と。家には根本のオヤジも来ていて、テーブルにはビール瓶の山ができていましたよ。どこかで話がついたんでしょうね」

(後編につづく)

<この原稿は2009年11月14日号『週刊現代』に掲載されたものです>