1979年、ライオンズは堤義明によって買収され、西武ライオンズとなった。カネに糸目をつけない補強で、アマチュアの大物を次々にかっさらっていった。球界の新盟主へ――。その陣頭指揮に立ったのが根本だった。工藤は西武の4期生にあたる。
 当時の西武はサムライ集団でもあった。田淵幸一、東尾修、山崎裕之、大田卓司、江夏豊(84年入団)……。工藤は広岡達朗(入団当時の監督)から「坊や」と呼んでかわいがられた。さながら海千山千のオヤジの中に、いたいけな少年がひとり紛れ込んだような風景だった。
 しかし、この少年はオオカミの群れに放り出されたウブな子羊ではなかった。
 入団1年目でのキャンプでの出来事。ある日、少年はバッティングピッチャーに駆り出された。バッターボックスはプロ18年目(当時)の山崎裕之。気難しいベテランに対し、少年は1球、2球と続けてボール球を放った。

 次の瞬間、山崎はバーンとバッターボックスの土を蹴り上げた。
 3球目はど真ん中のストライク。しかし、山崎のバットはピクリとも動かない。
 4球目、またしてもボール。ここで山崎がキレた。
「3球投げてストライクはずすんか! このクソがきが!」

 少年は帽子をとって「スミマセン」と深々と謝ったが、大ベテランの怒りは解けない。見かねた先輩投手が「工藤、オレが代わるよ」とバッティングピッチャーを買って出てくれたことで、なんとかその場は収まった。

 工藤は語る。
「気の弱い選手なら、もうそれだけで“イップス”になりますよ。今の若い子なら耐えられないでしょうね。僕は一応、“スミマセン”と謝ったけど、心の中では“バカヤロー、1球ストライク入っているじゃないか、ボケ。打てよ!”と叫んでいた。
 この世界、なんでも“ハイ、ハイ”と人の言うことを聞いているような素直な子は伸びないですね。先輩やコーチのアドバイスを1回、頭の中に入れ、2回ほどグルッと回してから“これはいる。これはいらない”と判断できるような子じゃないとやっていけない世界なんです」

 プロ入り4年目の85年、工藤は先発投手として一本立ちした。この年、8勝3敗、防御率2.76で最優秀防御率投手に輝いた。翌86年は11勝5敗、87年は15勝4敗、防御率2.41で再び最優秀防御率のタイトルを獲得した。
 日本シリーズでも工藤は大車輪の活躍を演じ、86年には1勝2セーブ、87年には2勝1セーブをあげ、2年連続MVPを受賞した。

 工藤が「神様」を超えたのは99年の日本シリーズ第1戦だ。
 95年にFA権を行使してダイエーに移籍した工藤は、この年、11勝をあげ、ホークスの福岡移転後、初のリーグ優勝に貢献した。
 日本シリーズの相手は星野中日だった。下馬評では中日有利。この年、3割3分をマークしたリードオフマンの関川浩一を、ダイエー投手陣がいかに封じるかが勝負のカギを握ると見られていた。

「関川さえ塁に出さなかったら何とかなる」
 初戦の先発を任された工藤はそう考えた。果たして、関川はどんなボールを待っているのか。頭の中のセンサーが回転し始めると、ベテランは急に雄弁になる。
「関川君は基本的にバットを前でさばくタイプのバッターでした。この手のバッターは普通よりタイミングの取り方が少し早いんです」

 工藤がリトマス試験紙代わりに用いたボール――それはアウトローのストレートだった。
「もし、そのままのタイミングで打ってきたらストレート待ち。体がボールに入ってくるような打ち方をすればカーブ待ち。逆に体が入らずに、そのまま打ちにきたものの、途中でバットを止めたら、スライダー待ち。それが関川のバッティングの傾向でした」
 あたかも医者が手元にある患者のカルテを説明しているような口ぶりだった。

 もはや関川はヘビににらまれたカエルも同然だった。結局、4打数無安打。初戦の不振が尾を引き、このシリーズ、関川はわずか2本しかヒットを放つことができなかった。
 初戦で13もの三振を奪った工藤は、稲尾和久が持っていた日本シリーズ通算奪三振を2つ上回った。
「えっ、神様を超えちゃったの? ヤバイな」
 試合後、おいしそうに紫煙をくゆらせながら、工藤は言った。童顔に秘められた恐るべき知略。それもまた生存競争を生き抜くための処世の術だった。

 今季、工藤は2勝3敗、防御率6.51という凡庸な成績ながら、10ホールドをマークした。ホールドとはリードしている場面、または同点の場面で登板し、一定の条件を満たした時に記録されるもので、リリーフ投手の勝利への貢献度を示すひとつの指標である。

「この先、リリーフとしてやっていけるのではないか」
 工藤がひそかに自信を得たゲームがある。それは5月20日、千葉マリンスタジアムでのロッテ戦だ。8回裏、4対1と3点リードの場面で工藤はマウンドに立った。2死満塁。ホームランが出れば逆転の場面である。
 バッターは大松尚逸。昨季、満塁ホームランを3本打っている勝負強い左のスラッガーだ。

 初球は内角へのシュート。胸元をついて大松を威嚇した。
 2球目、外角へカットボール。
 タイミングを狂わされた大松の打球はショートの前へ。計算通りのピッチングで工藤は火消しに成功したのである。

 私がうなったのは大松の初球に使った胸元へのシュートだ。実は大松に対してではなく、続く左の強打者・福浦和也への威嚇だったと工藤は言うのだ。
「大松の“シュート”は当たったらごめんね“という気持ちで投げました。もしデッドボールで押し出しだったとしても、まだウチには2点のリードがある。
 僕はネクストバッターズサークルの福浦の脳裡にシュートの残像を焼きつけておきたかった。あれを見れば福浦は“またくるんじゃないか”と意識するでしょう。そうなれば、もうシメたもの。あとは真っすぐでもカットボールでもアウトを取ることができる。点差が1点ならともかく、3点もあれば次のバッターとも勝負できる。そういう状況判断は常にしておかないと……」

 よく、目の前のバッターひとりひとりに集中するというピッチャーがいるが、工藤によればその考え方はあまりにも幼い。
 熟達の46歳はネクストバッターズサークルにまで目を配り、頭のセンサーをフル回転させ、勝利への最善手を探り続ける。その姿は「投げる知的財産」そのものではないか。

「今年1年リリーフやって、リリーフとはどういう仕事なのかということがおぼろげながらわかってきた。肩の作り方も先発とリリーフとでは全然、違うんです。先発ピッチャーだと試合前に40球くらい投げるんですが、リリーフだと大体20球ちょっと。投げない人は12、13球で終わる。しかも、登板前に2回肩をつくらなければいけない。
 リリーフを専門的にやって初めてわかりました。こんなに大変な仕事だったのかって。1イニング1イニングが勝負だし、また明日も、そして明後日も投げなくてはいけない。これが先発だと中5日、6日あけて投げ、2〜3回で打たれても、また同じ間隔で投げさせてもらえる。リリーフをやって、これまで知らなかった部分を知ることができた。これはきっと僕の今後にも生きてくると思っています」

 ひとつ提案がある。リリーバーに転向する以上、“平成の江夏豊”を目指したらどうか。
 江夏がクローザーに転向したのは30歳手前。今の工藤に比べればはるかに若いが、当時の江夏は肩もヒジもボロボロの状態だった。
「どや豊、革命を起こしてみんか」
 南海の監督(当時)・野村克也のこの一言がクローザー転向のきっかけとなったことは広く知られている。

「江夏の21球」が世間を驚かせた1979年、江夏は広島のクローザーとして自身初のシーズンMVPに輝いた。55試合に登板し、9勝5敗、防御率2.66という成績だった。
 2点台の防御率が引っかかった。1998年、大魔神こと佐々木主浩がクローザーとしては3人目のMVPに輝いたが、防御率は0.64だった。球界を代表するクローザーといえば防御率は1点台が相場である。

 いつだったか江夏にこのことを質すと、フンと鼻を鳴らしてこう言った。
「抑えのピッチャーに防御率は関係ない。たとえば4対1で勝っていたとする。4対3まではいいわけよ。だったら、このバッターはどのコースが得意でどのコースが苦手なのか、どの球種が打ててどの球種が打てないのか。それを探る機会にあてればいいじゃないか。打たれれば打たれたで、次の対戦の参考にすればいいんだから」

 こんな味のある話が聞けるのは、現役では工藤ただひとり。ここからの上り坂は、いよいよ細く険しいが、未踏の獣道に刻む一歩が、そのまま球界の遺産となる。
 来年5月、工藤は47歳になる。奇しくも工藤が愛してやまない背番号と同じ数の齢(よわい)である。

>>前編はこちら(工藤投手、入団会見の記事とセット)

<この原稿は2009年11月14日号『週刊現代』に掲載されたものです>