身長167センチのサウスポーが王者打倒の先陣を切る――26日に開幕するセ・リーグは、リーグ4連覇を目指す巨人に、昨季3位に入った東京ヤクルトが激突する。ヤクルトの開幕投手が確実視されているのが、エースの石川雅規だ。開幕投手を務めるのは3年連続5度目。一昨年の巨人との開幕ゲームでは7回途中2失点の好投で勝ち投手になっている。今季はオープン戦4試合で21回を投げ、失点はわずかに1と絶好調で、ストップ・ザ・ジャイアンツへの期待は高まる。小柄な体ながら厳しいプロの世界で着実に結果を残してきた左腕に二宮清純が迫った。
「これ、このゲームですよ」
 サウスポーが利き手の人差し指で示したゲームは昨年9月3日、甲子園球場での阪神戦だった。
 9回裏、東京ヤクルトが4対2と2点リード。しかし、阪神も粘りをみせる。
 この回、先頭の赤星憲広がセンター前ヒットで出塁、2番の平野恵一がレフト線へのヒットで続いた。無死一、二塁。ホームランが飛び出せばサヨナラの場面である。

 ヤクルトと阪神はクライマックスシリーズ出場を巡り、激しい3位争いを繰り広げていた。この時点でゲーム差は3。前日まで6連敗を喫し、3位の座が危うくなっていたヤクルトは背水の陣を敷くため、マウンドにエースの石川雅規を送った。
 8回までに120球を投げていた。疲れはあったが、この期に及んでそんなことは言っていられない。

 絶体絶命のピンチで迎えたバッターは3番の鳥谷敬。好打の左打者だ。黄色に染まったスタンドに鳥谷コールがこだまする。
「慌てることはない」
 サウスポーは自らに言い聞かせた。このような場面で左打者を封じるために磨きあげてきたボールがある。問題はそのボールをいつ使うか……。

 カウント1−1。グラブの中の左手が動く。人差し指と中指で縫い目をまたぐようにしてボールを握る。左打者の胸元をえぐる、ジャックナイフのようなシュートだ。ストレートと寸分違わぬ腕の振りで石川はウイニングショットをリリースした。

 次の瞬間、鈍い音を発した打球はファースト武内晋一の前へ。武内はそのまま一塁ベースを踏むと、素早く二塁ベース上のショート川島慶三にボールを転送。滑り込んできた一塁走者へタッチした。絵に描いたようなゲッツーが成立し、局面は2死一塁に変わった。

 しかし、まだ安心はできない。打席には4番・金本知憲が立っていた。ここ一番での勝負強さは折り紙付きだ。
 好投手はネクストバッターズサークルにいるバッターとも勝負している。鳥谷がシュートで打ち取られたシーンを目の当たりにして金本は何を考えたか……。

 カウント1−3。ここで石川は外角にスライダーを滑らせる。泳がされた金本の打球は力なくセカンド田中浩康の前へ。
 134球の完投勝利。11本のヒットを浴びながら、石川は2点しか与えなかった。ランナーを出しても本塁には還さない。石川の真骨頂がいかんなく発揮されたゲームだった。

 昨季、プロ8年目で、石川はキャリア・ハイ(最高の成績)を記録した。29試合に登板し13勝7敗、防御率3.54.198.1イニングはセ・リーグ最多の投球回だった。
 石川が“必殺のシュート”をマスターしたのは3年前の夏のことだ。石川は2軍落ちしていた。左ピッチャーが左バッターに打たれる。限界説も囁かれた。

 ある日、2軍が試合をする戸田球場に編成部の安田猛がフラッとやってきた。
 安田といえば小柄なサイドハンダーながら切れのいいシュートやスライダーを武器に最優秀防御率投手に2度も輝いている。チームの初優勝に貢献した技巧派のサウスポーだ。背丈もタイプも石川に似ていた。

 ワラにもすがる思いで石川は安田に教えを乞うた。「シュートを覚えたいんです」
 球団には内規があった。たとえ球団職員であってもコーチ以外の人間は選手を指導してはいけない。現場を混乱させないための予防措置である。
 しかし、選手から要望があった場合は、この限りではない。安田は後輩の申し出を快く引き受けた。

 安田の回想――。
「その頃、石川は左バッターを苦手にしていた。緩いシンカーのようなチェンジアップは持っていたのですが、落ち際を狙われていました。左ピッチャーが左バッターに打たれていたのでは仕事にならない。
 そこで僕は石川にシュートを教えた。懐をえぐるボールです。ヒジを少し上に上げ、掌が外を向くように投げる。かたちでいえば“くの字”かな。これだとヒジに負担がこないんです。そしてボールは中指と薬指の間から抜く。
 教えたのは1日だけですが石川はコツを掴んだようです。ただ欲を言えば、まだ曲がりが足りないかな(笑)」

 安田には誇らしげな記憶がある。現役時代、王貞治の一本足を崩してみせたのだ。いつしか安田は“王キラー”と呼ばれるようになった。
「王さんは僕のシュートを明らかに嫌がっていました。シュートに対応するため、右足を地面に着けて構えたこともあります。しめたと思いましたね。
 僕は王さんに生涯で10本のホームランを打たれていますが、うちスライダーが8本、シュートは2本しか打たれていない。それがシュートに対するささやかな誇りです」

 安田の実技指導で石川は復活した。それはシーズン途中までシュートをマスターしていなかった07年と、完全にマスターしてからの08年の成績を比較すれば明らかだ。
07年 4勝7敗、防御率4.38
08年 12勝10敗 防御率2.68(リーグ1位)
(写真:安田直伝のシュートの握り)

 石川には忘れられないゲームがある。
 07年9月13日。神宮球場での巨人戦。プロ6年目で初めての完封勝利だ。
「最後のバッターが(左の)小笠原道大さんだったんです。僕はそれまで小笠原さんを苦手にしていた。しかし、このゲームでは1本もヒットを打たれていないはずです。(セカンドゴロ、サードライナー、センターフライ、セカンドゴロ)。
 最後の打席もシュートを意識して外のスライダーを引っかけてくれた。シュートがあるとスライダーもいきてくるんだということがよくわかりました」

 この12日後、石川は広島戦で再び完封勝利をあげる。苦しんだシーズンの終盤に見せた快投が翌年の復活へとつながっていく。

 小柄なサウスポーにシュートの重要性を説いたのは、元ヤクルト監督の古田敦也である。
 古田との出会いは99年のシドニー五輪アジア地区予選にまで遡る。ソウルで行われた予選でプロとアマの混成チームが初めて結成された。
「石川君、どんなボール持っているの? 全部投げてみて」
 大学2年生だった石川にすれば、プロでもナンバーワンキャッチャーである古田は「雲の上の人」である。顔が上気していくのが自分でもわかった。

 当時、最も自信を持っていたボールはシンカー。石川は無心で腕を振った。
「おっ、ええシンカーやな。ハッカミーよりいけるぞ」
 ハッカミーとは当時のヤクルトの左の先発投手。プロの一線級よりも上だというのだ。これで舞い上がるなと言うほうが無理である。石川はいっそう自信を深めた。

「あれは予選リーグの台湾戦。古田さんは僕の135kmくらいの真っすぐでも、いきなり右の4番打者のインコースに3つ続けてきた。“いいのかな?”と思ってサイン通り投げたら、相手も意外だったのか見逃し三振。前のバッターにシンカーを見せたのが効いているんですね。初めてバッテリーを組んだのに、長年、一緒にやっているような安心感がありました」

 古田と再会を果たすのは、この3年後だ。石川は自由獲得枠でヤクルトに入団した。
 大学4年時にヒジを故障したが、東都リーグで通算23勝(8敗)の実績はダテではない。石川には即戦力の期待がかかった。
 プロに入るなり、古田に言われた。
「プロで食っていくんやったら、シュートを覚えないかんぞ」

 石川はカーブ、スライダー、シンカーと多彩な変化球を持っていたが、左バッターの懐を襲うボール、つまりシュートがなかった。プロの一線級の左バッターは胸元が安全だとわかると、思い切って踏み込んでくる。シュートがなければカーブもスライダーも死んでしまうのだ。

 そのことを認識しつつも、シュート習得への対応が遅れたのは入団以来、12勝(9敗)、12勝(11敗)、11勝(11敗)、10勝(8敗)、10勝(10敗)と5年連続で2ケタ勝利を記録することができたからである。だが石川には勝ち星と、ほぼ同数の負け星もついてまわった。

「だから5年連続で2ケタ勝利をあげているといっても、勝っているという気は全くしなかった」
 石川は苦い口調でそう語り、続けた。
「防御率も年々、悪くなっていき、07年には、それまでの貯金を全部、使い果たすようなかたちで2軍落ちしてしまった。もう限界だな、と自分では感じていました。古田さんの言っていたとおりだなって」

 安田との出会いは、まさに地獄で救世主に遭ったようなものだった。
 しかし、それを「運」の一言ですますことはできない。背が低く、球も遅い石川だが、このサウスポーには他の誰も真似のできない才能があった。

(後編につづく)

<この原稿は2010年3月20日号『週刊現代』に掲載されたものです>