もうひとつ、秋山のさりげない“プロ魂”を端的に示すエピソードを紹介しよう。
 現役時代、秋山は塁に出ると、まるで儀式のように右手の手袋をはずし、左手に持ち替えた。盗塁する時も左手で手袋を掴んだままなのだ。
 素人目には何ともしまらない格好に映った。「手袋をしっかりはめておかないと、ケガをするぞ」という指摘もあった。
(写真:「死球の当たり方もケガをしないような角度を研究していた」と語る)
 しかし、真実は逆だった。秋山は手を守るために手袋をはずし、わざわざ左手で握りしめていたのだ。何ゆえに手間のかかることをしたのか。
「手袋をしていると無意識のうちにスライディングをした際、手を付いてしまう。そちらのほうがむしろ危ないんです。
 手袋を手で握っていたら、危ないという意識があるから手を付かない。ケガをしないための工夫というかな。ある日、突然、思いついたんです。
 別に誰かから教わったわけではない。自分で考えついた。だってケガしたら、仕事がなくなっちゃんだから(笑)」

 当時の球界の常識を覆した目からウロコのメソッドを、自慢するでも気負うでもなくサラリと言ってのける。それが“秋山流”なのだ。こうしたスタイリッシュなプロフェッショナリズムは、いったいどこからくるものなのか。

 秋山は、いわゆる野球エリートではない。熊本・八代高の出身。同校は県下有数の進学校である。驚くことに入学後しばらくは野球部にも所属していなかった。
「基本的に野球やるために入った学校じゃなかったから。皆と同じように普通に受験勉強をしようと思っていたんです。
 ある日、仲間に誘われて野球部の練習を見に行った。まぁ中学時代、一応サードと外野を守った経験はありましたから。
 すると、いきなり“秋山、オマエ背が高いからピッチャーをやれ!”と。もう“エーッ”という感じですよ。なにしろ当時は野球部といっても7人くらいしかいなかったんだから、誰かがピッチャーをやらないと試合ができない。それで必死になってピッチャーの“勉強”を始めたんです……」

 すぐに素質は開花した。投げてはエース、打っては4番。
 高校3年の夏。同校としては初めて熊本県大会の決勝に進出した。もちろん勝てば春夏通じて初めての甲子園出場だ。
 決勝の相手は後に西武で同僚となる強肩強打の捕手・伊東勤を擁する熊本工。こちらは甲子園の常連だ。 

 8回が終わり、八代が4−3とリード。甲子園の切符は手を伸ばせば届くところにあった。
 ところが9回に悪夢のドラマが待っていた。2死ながら同点の走者が3塁に進み、迎える打者は伊東。前の打席でピッチャーの秋山は2ランを浴びていた。
 ここでバッテリーは敬遠策に出た。だが、この決断が明暗を分ける。逆転の走者となった伊東はすかさず二盗を決め、マウンド上の秋山にプレッシャーをかけると、続く4番打者の打球はセンター前へ。二者が一気に生還して、4−5。あとひとりに泣き、甲子園の土を踏むことは叶わなかった。

 甲子園には出場できなかったものの、県大会の活躍で秋山の評価は一気に高まった。しかし、この時点でもまだプロへの興味は湧いてこなかった。
「夏の大会が終わったら受験勉強。夏休みは課外授業を受けながら図書館にこもっていた。自力で大学に行くつもりだったから、大学野球部のセレクションも受けなかった。
 でも結局は(成績が)追いつけなかった。一時は予備校に行こうかと考えたんですが、家にそんなカネはない。それで九州のある大学に僕の(野球で活躍した)新聞記事を送ったらOKだと。獲ってくれるというんです。
 それで特待生の試験を受け、寮に泊まった。そこで考えたんです。“勉強しながら野球やるというんじゃ、高校の3年間と一緒だよなぁ。よし、一発プロで勝負してみようか”って」

 プロには「大学に進学する」と伝えていたから、ドラフトでの指名は見送られた。残る道はドラフト外入団。幸い西武の浦田直治スカウトが秋山に注目していた。あとは内定の出ていた大学をどう断るか。
 当時の西武にはアマチュア球界に顔のきく大物がいた。伝説のGM・根本隆夫である。
 話はあっという間にまとまった。西武は当初から秋山を野手として育てる方針だった。それも本人の希望と合致した。

 秋山にとっての転機はプロ7年目でのセンターコンバートである。
 1985年と86年、秋山は主にサードとして全試合に出場していた。本人も当初はセンターへのコンバートに乗り気ではなかった。

 それを口説き落としたのが監督の森である。森はヒザ詰めで秋山を説得した。
「ファンは何を求めているだろうか。サードのファウルフライを追いかける姿ではない。左中間や右中間に飛んであわやというライナーをもぎとるプレーではないか。君には、ファンにアピールする選手になってほしんだ」
 センターに正式にコンバートされた87年、秋山は43本塁打を放ち、初のホームラン王に輝く。盗塁数も38に伸ばし、名実ともに日本を代表するオールラウンドプレーヤーとなったのである。

 ただし秋山にとっては不吉なデータがある。
 これまで日本人外野手出身監督のリーグ優勝は81年の大沢啓二(日本ハム)、91年の山本浩二(広島)、2001年の若松勉(ヤクルト)の3例しかないのだ。日本一は若松の1度だけである。こうしたデータから「外野手出身者は監督に不向き」という声もある。

 ある捕手出身監督の意見。
「外野手というのは守っていても打つことばかり考えている。ピッチャーやキャッチャーだったら配球のことを考えるし、内野手だったら絶えずフォーメーションのことを考える。
 だけど外野手の場合、守っている時はただ飛んでくるボールを捕るだけでいいわけだからね。つまりバッテリーや内野手に比べると野球に“参加”している時間が少ないんだよ」

 もっとも外野手と一口にいってもレフト、センター、ライトと3つのポジションがある。先の3人はいずれもセンターを本職にしていた。つまりセンターは例外視すべきではないか。
 あえて秋山にそのことを問うた。

「センターは守っていて、すごく勉強になるポジションでした。ピッチャーを真後ろから見るから、すぐに調子がわかる。今日はいいね、今日は悪いねと。
 あとバッターもね。バットの出し方、クセ、皆それぞれ違っている。インコースのボールならこっち、アウトコースのボールならこっちと、配球とバッターのクセを読んで2、3歩ずつポジションを考える。極端にいえば1球ずつポジションをかえていましたよ。
 またキャッチャーの配球もわかりますからね。1打席目はこうやって打ち取ったから2打席目はこうくるだろうな、3打席目はこうかなという具合に。
 そういえば、どこに何を投げても打たれそうなバッターが2人いたね。ロッテ時代の落合(博満)さんと阪神のランディ・バース。この2人だけはどうにもならなかった。見逃し方とタイミングの取り方が良かったですよ。トップの位置から、いつでもパッとバットが出せる形で見逃しているから、どの球種にもどのコースにも対応できる。見ていて勉強になりました」

 今季のパ・リーグは“混パ”が予想される。どこの球団にもチャンスがある半面、どこの球団が最下位になってもおかしくはない。
「監督業は疲れるね。楽しいのは勝った後のほんの一瞬。また(次の試合へ)気持ちを切り替えなきゃいけないから勝利の余韻に浸っているヒマなんてない。でも今はいい胃薬があるから大丈夫ですよ」

 シャイな笑いが人柄をしのばせていた。
 好漢・秋山よ、今年はやらんといかんばい!

>>前編はこちら

<この原稿は2010年4月10日号『週刊現代』に掲載されたものです>