「独自の美学を持つ男」に初めてインタビューしたのは93年夏のことだ。前年、前田は初めて全試合出場を果たし、打率も3割台(3割8厘)に乗せていた。
――打席ではいつも怖い顔をしている。ピッチャーにナメられるのって嫌いでしょう?
「ナメられるのだけは許せんです。ちょっと熱くなるものがありますね」
――ど真ん中のボールを投げられるのが嫌いだとか(笑)。
「いや、まだ、それが好きだとか嫌いだとか言えるようなレベルの選手じゃない。“あぁ、それぐらいの選手なんだなぁ”と自分に言い聞かせて納得させるしかない。ただ、そういう甘いボールは必ず打たせてもらいます。
 それを打ち込まんことには、ピッチャーも厳しいボールを投げてくれんでしょう。甘いボールじゃやり甲斐がないし、それ以上に向こう(ピッチャー)に気持ちが入っておらんかったら、打ってもおもしろくない」(『Number』322号/93年9月5日号)

 普通、甘いボールがくればバッターは「しめた!」と喜ぶものだ。ところが当時22歳の青年は、自分が見下されることが許せなかった。腕を上げるために難易度の高いボールをひたすら待った。それを仕留めることで自らのレゾンデートル(存在理由)を確認した。まるで月に向かって、「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈った悲運の武将・山中鹿之助の若き日の姿ではないか。

 このような修行僧的な野球観はプロになってから育まれたものではない。熊本工高時代、前田が最も信頼を寄せていた田爪正和(当時の野球部長)から、こんな話を聞いたことがある。
 高3の夏、前田は熊工の4番主将として甲子園に出場した。初戦の相手は静岡県代表の日大三島。“事件”が起きたのは1回の攻撃が終わった直後だった。
 日大三島のピッチャー・関孝浩からセンター前ヒットを打ったというのに、少しもうれしそうな素振りを見せない。それどころか、ベンチに座り込んだまま、動こうともしないのだ。

 田爪が「どうしたんだ?」と声をかけると、前田は目を真っ赤に染め、頭を抱えて黙り込んでしまった。よく見ると、泣いていた。田爪は語った。
「まさか、と思いましたよ。こういうことは練習試合でもあったんです。たとえヒットを打っても、それが気にくわない当たりだと、彼はこうなってしまうんです。
 でも、ここは甲子園ですよ。そんなこと言っている場合じゃない。“頼むから行ってくれ。守備についてくれ”と私は拝み倒しましたよ。
 審判は“何をやっているんだろう”と思ったんでしょうが、まさかヒットの内容が気にくわんから守りにつかん、とは想像もせんかったでしょう。そんな高校生、甲子園史上ひとりもおらんはずですよ。
 何とか拝み倒して守備についてくれた時にはホッとしました。これでワシの仕事は終わった、と思いましたよ」

 実力は高校時代から抜きん出ていた。九州に前田智徳あり――。
 ヤクルトで活躍した川崎憲次郎は練習試合で前田に浴びた満塁ホームランが未だに忘れられない。川崎は大分・津久見のエースとして高3のセンバツに出場し、「高校球界ナンバーワン右腕」の評価を得ていた。
「センバツから帰ったあとの試合。前田はまだ2年生。インハイのストレートを軽々と右中間スタンドに運ばれた。“こいつ、凄いセンスしているなぁ”とビックリしましたね」

 ドラフト1位候補の本格派を易々と粉砕する下級生をプロのスカウトが見逃すはずがない。前田の素質に誰よりも早く気づき、足しげく熊工のグラウンドに通ったのが、広島の九州地区担当スカウト村上(旧姓・宮川)孝雄(現スカウト部顧問)だった。
「3年の春の大会で(センターまで約122メートルある)藤崎台球場のスコアボードに打球をぶつけたんです。私は秋山幸二(現福岡ソフトバンク監督)も見たけど、前田とはモノが違っとったね。ああいう打球は、もう死ぬまで見れんでしょうな」

 難題が持ち上がったのは、ドラフト会議直前だ。当初、広島は前田を2位で指名する方針だった。ところが「左バッターより先に右の大砲を」という声が現場から上がり、前田の指名順位は4位に“格下げ”となった。村上は頭を抱えた。
 さらには……。
「球団に怪文書が届いたんです」
 内容は「暴力事件を起こした前田のドラフト指名を回避しろ」というものだった。

 村上の回想。
「実はね、熊工の野球部の後輩がヨソの学校の野球部員に殴られたことがあったんです。それに怒った前田が、その学校にひとりで乗り込み、全員をのしてしまったというんです。
 当時のスカウト部長は備前喜夫さん。その手紙を見て“獲るのをやめよう”と言い出した。もちろん、私は反対しましたよ。“今どき珍しいくらい律儀で責任感のある子やないか。ワシが責任持つから、アンタつまらんこと言うな”と。
 でも結局は、この手紙が良かったのかもしれません。あれほど素質のある子が4位まで残っていたのは、他の球団が、この手紙を読んで手を引いたからでしょう。前田と広島にとっては“運命の手紙”やったかもわからんね」

 村上は現役時代、代打男として名を馳せた。72年には6打席連続代打安打を記録している。ここ一番での勝負強さは折り紙付きだった。現役を引退し、スカウトに転身してからも自らの勝負勘を大切にした。

 前田がプロに入ってレギュラーを掴み、順風満帆の頃だ。広島市民球場で顔を合わせるなり村上に言った。
「宮川さん、メジャーで勝負したいんじゃ」
「おぉ、行ってこい。オマエは日本で終わるような選手やないぞ」
「通用しますか?」
「オマエが通用せんかったら、誰が通用するんじゃ」

 右足アキレス腱断裂の大ケガを負うのは、翌95年のことである。無念の面持ちで74歳の村上は語る。
「実はね、指名の挨拶に行った時、あの子に『現代野球百科』という本を渡したんです。元ドジャース監督のウォルター・オルストンが著したものです。この中にはミッキー・マントルやテッド・ウィリアムズなど名選手の打撃術が全て入っていた。いつかメジャーリーガーになってほしいという夢を、あの本に託したんじゃ。
 あのケガさえ、なかったら……。本当に残念です。そして悔しい。あの子がメジャーリーグで活躍する姿を見たかった。絶対に成功していますよ。えぇ絶対に……」

 右足アキレス腱を断裂して以来、前田のバッティングフォームは明らかに変わった。右足への負担を軽減するため、それまで以上に後ろ足(左足)に体重を残すようになった。
「もう打席に立っているのがやっとという時もあった。ピッチャーに“頼むから急いで投げてくれ”と言いたくなる時もありました」
 いつだったか前田は私にこう語った。

 それ以上に衝撃的だったのは、次の言葉だ。
「いっそのこと、もう片方(のアキレス腱)も切れんかな、と思ったこともあります。両方切るとバランスがよくなるらしいんです。でも今から切ったら、治っても、もう遅すぎますね」
 悲痛な告白だった。

 その後も右太もも、右ふくらはぎ、左ふくらはぎ……と前田は毎年のように足のどこかの部位を故障した。足元が安定せず、ゴンドラのように体を揺らしながら、それでも前田は鬼気迫るような表情で乾坤一擲の打球を放ち続けた。
 かつてイチロー(マリナーズ)が憧れ、松井秀喜(エンゼルス)が追いかけ、落合博満が認めた「孤高の天才」は今、代打屋という名の一振り稼業に生きる。

 追い詰められた手負いの狼ほど恐ろしいものはない。獲物を仕留める技術にかけては、今の球界で彼の右に出る者はいない。
 打撃技術の真髄をお蔵入りさせないためにも、誰か老いた狼を本気にさせてくれないか。打撃を極めるとはどういうことなのか、それをしかと見届けたい。

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<この原稿は2010年5月1日号『週刊現代』に掲載されたものです>