8日、レスリング女子48キロ級決勝、63キロ級決勝が行なわれた。48キロ級では初出場の小原日登美(自衛隊)がマリア・スタドニク(アゼルバイジャン)と対戦。第1ピリオドを落としたものの、第2、第3ピリオドを奪って逆転勝ち。この階級で日本勢初となる金メダルに輝いた。一方、63キロ級決勝では、伊調馨(ALSOK)が景瑞雪(中国)と対戦。相手に1ポイントも与えない圧倒的な力をみせつけ、全競技を通して日本女子では初の五輪3連覇を達成した。
<小原は逆転で悲願達成!>

 一つ目のヤマ場は、準決勝だった。相手は4年前の北京五輪金メダリストのキャロル・ハイン(カナダ)。北京の決勝では伊調千春が破れ、日本にとっては宿敵の相手だ。しかし、現在世界選手権2連覇中の小原。ハインにも勝っているだけに、自信をもっていたのだろう。第1ピリオドからタックルが決まり、2−0で奪うと、第2ピリオドも2度にわたってタックルからバックにまわりポイントをあげる。終盤は逆に相手にバックを取られ、劣勢になる場面もあったが、なんとか凌ぎ切り、決勝へとコマを進めた。

 決勝の相手は24歳のスタドニク。北京では銅メダルを獲得し、09年の世界選手権では優勝している若手の強豪だ。第1ピリオドは開始20秒、体勢が崩れたところからバックを取られ、1ポイントを失う。これで焦りが生じたのか、小原はなかなかポイントが奪えない。逆に一瞬の隙をつかれ、相手にタックルからローリングで3ポイントを失う。第1ピリオドは4−0で落とした。

 続く第2ピリオド、口を真一文字にして気合いを入れる小原。まずは相手の状態を上から抑えて動きを止める“ガブリ”からバックをとり、1ポイントをあげる。そのままこのポイントを守り切り、勝負は第3ピリオドへ。

 第3ピリオド、小原は開始早々、相手の足をとり、押し出して1ポイントをあげる。会場では多くの日の丸が揺れ、「オバラ!」の大合唱の中、前へ前へと攻める小原。相手がタックルをしにきたところをまわりこみバックをとって1ポイントを追加した。その後は互いにポイントを奪うことができず、2分間が経過。小原が見事な逆転勝ちをおさめ、初の五輪の舞台で頂点に立った。

 終了のブザーが鳴った瞬間、大きくガッツポーズをした小原は、そのまま両手で顔を覆い、泣き崩れた。一度は五輪の夢を諦めた小原。苦労を乗り越えた末につかんだ金メダルは絶え間ない努力の結晶である。そして、この後に続く日本勢に大きな追い風となるに違いない。

<伊調、圧巻の金メダル>

 続いて行なわれた63キロ級決勝では、伊調が日本女子としては初の五輪3連覇に挑んだ。決勝の相手は昨年の世界選手権3位の景瑞雪。序盤から細かくステップを踏み、チャンスをうかがう伊調。すると、素早いタックルであっという間に3ポイントをあげる。その後はタックルに入ろうとする相手をうまくかわし、ポイントを守り切った。

 第2ピリオド、伊調は集中力を高めるかのように掛け声をあげてマットに上がった。途中、相手が右足を狙い、片足タックルを試みる。右足を高く上げられ、バランスを崩されかけた。だが、女王はこの最大のピンチにも全く動じなかった。踏ん張って凌ぎ切ると、逆に相手を倒し、バックを取りポイントを奪う。結局、相手に1ポイントも与えないまま2分間が過ぎ、完勝で3連覇を達成した。

 初戦から決勝まで全4試合を通して1ピリオドも落とさない圧巻の金メダルだった。 日本人女子としては初、男女合わせても柔道60キロ級の野村忠宏に続いて2人目の五輪3連覇という偉業にも「まだまだ自分のやりたいことが出せなかった」と反省の言葉を述べた伊調。女王らしい風格を感じさせた。これで7度の世界選手権を合わせて出場した10大会全勝。伊調の時代はまだまだ続きそうだ。


▼2012年5月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)では、二宮清純が小原日登美選手にインタビュー! ロンドン五輪直前に控えた小原選手の心境とは……。

 女子レスリングは世界選手権では7階級実施されるが、五輪では4階級だ。51キロ級の選手が五輪を狙う場合、増量して55キロ級で臨むか、減量して48キロ級にエントリーするしかない。
 48キロ級でロンドン五輪の金メダルを狙う小原日登美は、51キロ級では6度、世界選手権を制している。このクラスきっての実力者だった。
 五輪では55キロ級での出場を目指した。減量して48キロ級にエントリーすることもできたが、このクラスには妹の真喜子がいた。

 姉妹対決を回避した場合、選択肢は55キロ級しかない。しかし、このクラスには女王がいた。吉田沙保里だ。
 アテネ五輪につながる世界選手権の代表権をかけた02年の全日本選手権では、わずか25秒で軍門に下った。
「自分は五輪に縁はない。もう諦めよう」
 荷物をまとめて実家のある青森に帰った。22歳の時だった。だが、レスリングへの思い、五輪への夢は、そう簡単には断ち切れなかった。

 振り返って日登美は語る。
「一度、区切りをつけたはずなのに、やっぱりレスリングのことばかり考えている自分がいるんですね。アテネ五輪はテレビで観たのですが、正直言って悔しい気持ちばかりでいました」
 再びマットに戻り、北京五輪を目指したが、リベンジを誓った4年後の全日本選手権でも吉田に返り討ちにあった。女王の壁は、あまりにも厚かった。
 今度こそ現役を諦め、コーチ業に専念していた一昨年のことだ。ロンドン五輪を目指していた妹の真喜子が結婚した。家庭に入ることを決めた真喜子は、日登美に向かって、こう告げた。
「自分はこれ以上、もう強くなれない。日登美が私に代わってロンドン五輪の48キロ級を目指したほうがいい」
 それがカムバックを決意するきっかけだった。

 だが、軽いクラスに転向したからといって五輪出場が約束されているわけではない。軽い階級には軽い階級なりの難しさがあった。
 日登美は説明する。
「小さい選手を相手にすると“(懐に)飛び込まれるんじゃないか”という怖さがあるんです。このクラスはスピードのある選手が多いため、これまで取れていたタックルも取れなくなった。その点については随分、悩みました。
 それに減量も慣れないうちは戸惑いました。急に体重を落とすと、体力まで落ちてしまう。復帰した年(10年)のアジア大会では足に力が入らず負けてしまった。これも今までに経験したことのない苦しみでした」

 日登美の復帰を支えたのが所属する自衛隊体育学校のストレングス&コンディションニングコーチの太田暁央である。
「復帰にあたっては減量と強化トレーニングという背反する作業をやる必要がありました。これが現役選手ならトレーニング量を維持しながら(体重を)減らせばいい。しかし、ブランクのある選手は最低限の負荷からトレーニングを始めなければならない」
 太田はユニークな練習法を取り入れていた。相撲流のトレーニングだ。四股を踏み、スリ足で前進する。時にはぶつかり稽古も命じた。

 再び太田は語る。
「相撲ではっけよいのこった、というタイミングで瞬時に相手の懐に入るのは、レスリングでタックルしたり、タックルを受けたりする部分と共通しているんです。だから立ち合いの稽古も、ものすごく重要視しました」
 こうしたトレーニングによって日登美はどう変わったのか。
 本人の感想。
「以前は相手と近づいて戦うのが怖かったのですが、今は平気になりましたね」

 昨年9月、日登美は世界選手権を連覇し、続く12月の日本選手権も制して、ロンドン五輪出場を決めた。
「本当にここまで来るのが長かった……」
 日登美はしみじみと語った。
 この試合を会場で見守っていたのが夫の康司である。日登美を精神面で支え続けた。康司は日登美にとって高校(八戸工大一高)の1年後輩にあたる。自身もレスリング選手で、高校卒業後は自衛隊体育学校に入り、五輪を目指していた。

「売れ残ったらオレが結婚してやるよ」
 冗談めかして康司はそう言っていた。それまでもたびたび日登美の相談に乗っていた。
 日登美は明かす。
「レスリングを最初に離れた時、実家に戻って体重が74キロくらいにまで増えていました。その時、“自衛隊体育学校に来て、もう1回痩せてレスリングをやればいいじゃないか?”と私を誘ってくれたのが旦那なんです。
 一昨年に現役復帰したタイミングで、ちょうど旦那はケガをして引退をしていました。それもあって私を支える側に回ってくれたんです」

 婚姻届を提出したのは一昨年10月10日。46年前、東京五輪が開幕した日だった。
「旦那には本当に支えられています。私が悩んでいると“そんなことで悩んでいても意味がない”とか、“人にばかり(解決策を)聞かないで、自分で考えないとダメだ”とか、いつも的確なアドバイスをしてくれます。
 試合が近づくと家にいても、どうしてもレスリングの話になる。ビデオで相手を研究することが多くなるんです。そういう時には組み手の相手をしてくれたりもします。
 48キロ級ではタックルが取れず、3セット目までもつれることが多かったのですが、タックル以外で組み手をどうするか。それを旦那から教わりました」

 結婚指輪はペアになっている。日登美のそれは赤と黒と青色の輪っかがあり、ダイヤが埋め込まれている。一方の康司は黄と緑。2つを重ねれば五輪のマークになる。
「これをもらった時には感動しました。“この人、本気で私と五輪を目指してくれているんだな”って。この指輪は世界にたったひとつのものです」
 夫唱婦随ならぬ婦唱夫随で目指すロンドンの表彰台。金メダルを胸に飾り、互いの指輪を重ねる。ロマンチックな物語は8月8日に完結する。