アジアカップ2004での中国応援団の“暴走”は国際問題にまで発展してしまった。
 旧日本軍の戦争犯罪や尖閣諸島問題、靖国問題に対するフラストレーションが日本代表に一気に降りかかった。

 重慶では多くの中国人サポーターが君が代の演奏中にブーイングを飛ばした。少数の日本人サポーター席には紙コップなどが投げつけられた。政治や外交上の問題が、そのままスタジアムに持ち込まれた格好だ。

 重慶は第2次大戦中、旧日本軍が繰り返し空爆を行った都市だ。いわば中国のなかでもひときわ“反日感情”の強い土地柄だ。これに近年の“反日教育”が輪をかけた。ケガ人が出なかったことがせめてもの救いだった。アジアにおける“反日”の噴出には、私も何度か遭遇している。何をやりだすかわからない群集心理の怖さを身をもって感じたこともある。

 記憶に残っている中で、一番怖かったのは韓国のボクシング会場だ。日本のボクサーや記者というだけで、まわりから白い眼で見られた。この頃、日本人ボクサーは韓国では勝てないと言われたが、仕方がない面もあった。敵地で韓国人ボクサーをKOでもしようものなら、生きて帰れないという雰囲気が漂っていた。

 参考までに敵地韓国での世界戦で勝利した日本人ボクサーというと、渡辺二郎(85年12月、尹石煥を5回KOで破り、WBC世界ジュニアバンタム級世界王座を防衛)が最初で最後。未だに韓国は日本人ボクサーにとっては“鬼門”である。

 こんなことがあった。韓国での世界戦、ある日本人チャレンジャーに同行した時のことだ。タクシーに乗ったものの、市内を走れども走れども会場に着かない。ピーンと着た。これは嫌がらせではないか……。運転手を激しく問い詰めると、実は試合会場は目と鼻の先だった。私たちは自ら後部座席のドアを開けて、中央分離帯付近で車を降りた。

 証拠はないが、チャンピオンサイドのプロモーターが運転手に迂回を命じたことは想像がついた。日本人ボクサーはリングに上がる前からプレッシャーをかけられ、結局、力を発揮できずに敗れ去った。

 帰国後、アジアのボクシング事情に詳しいマッチメーカーに叱られた。
「なぜ、自分たちで運転手を用意しなかったのか。向こうに任せていたら、そんな嫌がらせを受けるのは当たり前だよ。これからはね、向こうで用意される食事にも絶対に手をつけちゃダメ。ファンとの握手もダメ。ファンを装って、手の中に刃物を入れていることもあるから。敵地ではそのくらいの用心深さが必要。ホームタウンデシジョンはリングの中だけじゃないんだよ」

 ここまでの話はソウル五輪前のこと。私は1985年から韓国のスポーツについて取材を始めたが、88年のソウル五輪(パルパル五輪)を境にガラリと韓国の人々の対日感情は変わった。88年のソウル五輪までは、日本人というだけで敵視されたものだが、88年以降、日本人に対する視線は急速にやわらかくなっていった。
 
 理由はいくつか考えられる。自国でのオリンピックを成功させたことが自信につながったのだろう。偏狭なナショナリズムが、むしろ自らの立場をも悪くするということにも気付いたのかもしれない。

 いずれにしても国際的な視線にさらされたことで、「スポーツと国家間の感情は別物」ということを知ったのは、韓国の人々にとっても有益だった。2002年のサッカーW杯では日韓のサポーターの親善が進み、同じ東アジアの仲間として日本人が韓国を、韓国人が日本を応援するというシーンまで現出した。

 日本サッカー協会副会長でFIFA理事も務める小倉純二氏は先頃、出版した『サッカーの国際政治学』の中でこう述べている。
<かつて“近くて遠い国”と呼ばれていた日本と韓国は、ワールドカップ共催以降、その関係が劇的に変化した。戦争以降、長く続いていた韓国人の日本人への敵視はもうほとんど影を潜め、日本においては韓国のテレビドラマが若者や女性の間で大変な人気を博している。>

 中国に今、一番必要なのは時間である。スポーツの現場に国家間の感情を持ち込むことがいかに愚であるか、いずれわかるだろう。スタンドでの“暴走”は衛星放送で世界中の人々が知るところとなった。2008年に北京オリンピックを控えている中国にとって、こうした偏屈なナショナリズムの噴出は、実は自分で自分の首を締めていることに他ならないのだ。

 実はこの問題で一番、頭を痛めているのは中国政府のオリンピック官僚かもしれない。

(この原稿は『週刊漫画ゴラク』04年9月3日号に掲載されました)


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