バルセロナ五輪、柔道71キロ級決勝。赤旗2本が上がった瞬間、古賀稔彦は両の拳をしっかりと握り締め、空を見上げて「ハァーッ!」と叫んだ。同時に大粒の涙が頬をつたった。1992年7月31日のことだ。

 実は試合10日前に古賀は左ヒザを痛めていた。後輩の吉田秀彦との乱取りの際にバランスを崩し、じん帯が伸び切ってしまったのだ。歩くことはもちろん、立つことさえままならなかった。

 ところが、このケガが古賀を明鏡止水の境地に誘う。「“これで優勝できるんだ”という確信が生まれた」というのである。「いろんな雑念が吹っ切れたんです。調子がいいと、考えなくてもいいことまであれこれ考えるでしょう。ところがケガをしたことで、気持ちが勝負だけに集中できるようになったんです」

 圧巻だったのは準決勝のシュテファン・ドット(ドイツ)戦。伝家の宝刀の一本背負いが見事に決まったのだ。宙を舞いながら畳に落ちていくドット。美しさのあまり観客は総立ちとなり、万雷の拍手を日本人におくった。

 決勝のベルタラン・ハイトシュ(ハンガリー)戦は微妙な判定だった。大外刈りでグラついた分、古賀の印象が悪いようにも感じられた。しかし、判定では古賀の勝利を意味する2本の旗が上がった。審判はドット戦で見せた一本背負いの美しさを覚えていたのではないか。

 振り返って私は思う。あの日、勝ったのは古賀ではなく柔道だったのではないか。もっと言えば柔道の美しさが勝利したのではないか。「ブラボー!」。会場で古賀が耳にした声である。


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