「オレの背を見ろ」とプレーだけでチームを引っ張るのがキャプテンではない。神聖なる立場のレフェリーに対しても、言うべきことは言わなければならない。
完全試合を達成したピッチャーは、日本プロ野球史上15人しかいない。最後に大記録を達成したのが元巨人の槙原寛己である。
オリンピック、世界選手権を通じて、陸上のトラック競技で日本人男子で初めて表彰台に上がった男――それが「サムライ・ハードラー」こと為末大である。
試合が終わってからも、テレビの前から立ち上がることができなかった。実況を担当した杉浦滋男アナウンサー(故人)の絶叫は、今も私の耳の奥にこびりついたままである。
「このスタジアムがこんなに興奮したのは久しぶりだ。88年のワールドシリーズ初戦でカーク・ギブソンが劇的なホームランを打って以来だろうか」 そう語ったのはロサンゼルス・タイムズのケビン・バクスター記者。WBC決勝の日本対韓国戦を見ての感想だ。最高の褒め言葉といっていいだろう。
19打数5安打、打率2割6分3厘。打数の少ない短期決戦では決して非難されるような数字ではない。しかし、この打率の主がイチローだとなると話は別だ。
241戦して232勝(228KO)5敗。勝率9割6分3厘。驚異的な数字である。“キックの鬼”と呼ばれた沢村忠が残したものだ。
スポーツは公共財であって企業の私物ではない。そんな当たり前のことが、企業の論理の前では通じない。今から10年前、誰よりもそのことに憤った男がいる。
ヴェルディの司令塔ラモス瑠偉は左足大腿部を傷め、万全の状態ではなかった。試合前のサンフレッチェベンチの指示は「気を付けるのはビスマルク。ラモスは適当に遊ばせておけ」というものだった。そこに油断があった。
「江夏の21球」といえば、今から30年前のことだ。1979年11月4日、大阪球場。広島対近鉄、日本シリーズ第7戦。近鉄が先に2連勝したが、地元に帰って広島が3連勝、大阪に帰って近鉄が星を戻し、日本シリーズは最終戦にまでもつれ込んだ。
阿久沢毅という野球選手の名前は、余程の高校野球ファンでない限り知らないだろう。かつて私は彼を「高校野球史上最強打者」に指名したことがある。
速いのは高橋尚子、強いのは弘山晴美。現役時代の二人にはそんなイメージがある。 2000年1月30日、シドニー五輪選考を兼ねた大阪国際女子マラソン。弘山は37キロ過ぎでトップに立ち、レースを引っ張った。ゴールの先にはシドニー行きのチケットがあった。
ボクシングで若者に勇気を与えたという点では、おそらく彼が一番ではないか。元WBA世界フライ級王者・大場政夫。私の世代の男子で、彼のファイトに影響を受けなかった者はいないといっていい。
1985年にはこの国を揺るがす大きな出来事が3つあった。第一にプラザ合意。日本は米国の対日貿易赤字解消のため、円高ドル安政策を受け入れざるを得なかった。円高不況を回避するため、日銀は低金利政策を実施し、これがバブル景気、そして後のバブル崩壊へとつながっていく。
現役時代、「小さな大打者」の異名をとり、監督としても2001年にヤクルトを日本一に導いた若松勉が野球殿堂入りを果たした。 通算打率3割1分9厘――。これは4000打数以上のバッターの中では日本人最高打率である。
視聴率64%ということは、単純に計算して日本人の6割以上がこの試合を見ていたということだ。テレビがあまねく普及していない時代のこととはいえ、驚異的な視聴率だ。
前半が終わった時点で、神戸製鋼の敗退を予想する者は、少なくともサントリーの関係者を除いてはひとりもいなかっただろう。11対3。神戸製鋼にとっては思い通りの展開だった。
1994年5月2日(日本時間)の未明。熟睡していた中嶋悟は「何か嫌な予感を感じて」フッと目が覚めた。「とりあえずテレビでも見ようか……」
マウンド上で涙をこぼしながら投げたのは後にも先にも上原浩治ひとりではないだろうか。
横浜を自由契約となった石井琢朗の広島入りが決まった。来季から赤ヘル軍団の一員として新球場でプレーする。38歳の経験と頭脳は、チームにとって大きな財産となるはずだ。
近年の社会人ラグビーの名勝負といえば、1991年1月8日、第43回全国社会人大会決勝、神戸製鋼対三洋電機戦にとどめを刺す。
大相撲の名解説者といえば、昔は神風(元関脇)だが、今は舞の海(元小結)だろう。とにかく聞き応えがある。テレビもいいがラジオはもっといい。
Qちゃんこと高橋尚子が最後に輝いたレースについて書いてみたい。2005年11月20日、東京国際女子マラソン。レース前々日、Qちゃんは右脚に3カ所の肉離れがあることを公表した。
あのマラドーナが戻ってくる。アルフィオ・バシーレの辞任に伴い、アルゼンチン代表監督にディエゴ・マラドーナが就任することになった。「86年(メキシコW杯)の時のようなアルゼンチン代表をつくりたい」。マラドーナはこう抱負を述べた。
ラモスがピッチに崩れ落ち、ゴン(中山雅史)がベンチで顔を覆う。1993年10月28日、深夜(日本時間)。列島を悲鳴と嗚咽が包んだ。