テレビの歴史は、そのままプロレスの歴史でもある。そしてプロレスといえば力道山だ。あの長嶋茂雄がプロ入りの際のインタビューで「憧れの人は力道山」と答えたのは有名な話。空手チョップを振るって観衆を鼓舞する姿に感銘を受けたというのだ。
 1954年2月、蔵前国技館で行なわれたシャープ兄弟との対決には、力道山見たさに2万人の観衆が新橋駅前の広場に詰め掛けた。街頭テレビを観るためだ。国民の多くは力道山を通してテレビという“文明の利器”を知ったのである。

 驚くのは57年10月に放送された力道山対ルー・テーズのNWA世界戦の視聴率だ。実に87パーセント。テレビの普及にプロレスが果たした役割は計り知れない。
 テレビ視聴率の全国調査が始まったのは62年からだが、日本テレビは上位3番組のうち2番組までをプロレス中継が占めている。具体的に言えば63年の力道山対デストロイヤー戦が64%、66年のビートルズ日本公演が56.5%、65年の豊登対デストロイヤー戦が51.2%。草創期、日本テレビにとって最大のキラーコンテンツはプロレスだったのだ。

 かくいう私もプロレス少年のひとりだった。金曜夜8時は、たとえ何があってもテレビの前に座っていた。力道山の記憶はかすかだが、豊登のカッポンカッポンは風呂上がりによく真似をした。丸太のような両腕を胸の前で勢いよく交錯させると威勢のいい音が響き渡るのだ。当時、大流行した遊びだ。
 豊登の次はジャイアント馬場とアントニオ猪木だ。十六文キックに空手チョップ。馬場が剛球派なら猪木はコブラツイストや卍固めなど多彩な技を繰り出す技巧派。加えて一本足頭突きの大木金太郎に業師・吉村道明。脇役も芸達者揃いだった。

 オールドファンには日本テレビ=プロレス中継というイメージがある。開局翌年から55年間も放送し続けてきたのだから、なおさらだ。その日本テレビからプロレス中継が消える。
 経営環境の悪化を受け、費用対効果に乏しいコンテンツは、たとえ長い歴史を誇るものでも打ち切りは免れないということなのだろう。そんなご時勢だから、余計に想う。もし力道山が今の時代に生きていたら、どんな手を打っていただろう。復活のカギは過去にありはしまいか。

<この原稿は08年12月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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