1999年6月1日の開設以来、当サイトでは膨大な量のインタビュー記事、コラムを更新してきました。今回はサイト10周年を記念して1カ月間、過去の傑作や貴重な内容のものをセレクトし、復刻版として毎日お届けします。記事内容は基本的に当時のままを掲載する予定です。現在は名称や所属が異なる場合もありますが、ご了承ください。第1弾は今月の「FORZA SHIKOKU」で編集長・二宮清純がスペシャルインタビューを行っている玉春日の特集(99年7月更新)をお送りします。
 玉春日 第1回「乙亥相撲で培った勝負魂」

「江戸の大関より地元の三段目」という言葉があるように、他のスポーツ、格闘技に比べて相撲は郷土との結び付きが強い。ケレン味のない突き押し相撲で見る者の心を清々しくさせる玉春日は東宇和郡野村町の出身。愛媛では唯一の幕内力士だ。
 彼もまた故郷を愛する者の1人である。そして、故郷の後押しがあったからこそ現在の彼がある――。

 昭和46年は角界にとって激動の1年だった。史上最多優勝32回の大横綱・大鵬が引退し、玉の海が横綱在位中に死去。さらには愛媛が生んだ横綱・前田山も57歳でこの世を去った。玉春日良二――本名・松本良二が6人兄弟の末っ子として誕生したのは、その翌年の47年、松の内も明けない1月7日のことだった。
 出生児の体重は4200グラム。医学的には巨大児と呼ばれる範疇になるが、この時点では父・法眞、母・八重子とも「将来、力士になろうとは夢にも思わなかった」という。

 そんな松本少年と相撲との出会いは小学3年の時だった。野村町では毎年11月に「乙亥(おとい)大相撲」と呼ばれるイベントが行われている。嘉永5年(1852)の大火災を機に始まった100年以上の歴史を持つ愛宕神社の無火災祈願奉納相撲だが、同級生たちよりひと回り体の大きかったことで必然的に地区の代表に選ばれた。

 それまで遊びですら相撲を取ったことはなく、ほんの少しだけの稽古をして臨んだ相撲だったがフタを開けてみれば予期せぬ快進撃。バッタバッタと対戦相手をなぎ倒してしまった。
「初めて相撲を取った時のことは、よく覚えていない」。松本少年にとっては些細な出来事だったが、活躍ぶりはすぐに野村町の相撲愛好会の面々の目に留まった。その後はしばしば稽古に連れ出されるようになり、自然と相撲が体に染み付いていった。

 小学4年になると「わんぱく相撲」の予選に出場。やはり自分の意志ではなく大人たちの進めによるものだったが、県大会では上位に入って四国大会まで進んでしまった。
 体が大きければ相撲を取るには好都合。特に少年時代はなおさらだ。だが、松本少年は単なる肥満児ではなかった。運動神経も人並み外れたものがあった。

 惣川中では大会がある度に水泳や陸上競技の砲丸投げ、走り幅跳びの選手として駆り出されたが、ことごとく好成績を収めた。“本業”の相撲では3年で全国大会に導き団体ベスト16。個人では8位に入賞した。

 この頃になると、町中の誰もがいずれはプロに進むだろうと考えていた。半ば無理やり続けさせられていた相撲に嫌気が差していた。中学の進路相談ではキッパリ言った。「本当は相撲が嫌いだった。もともと中学でやめるつもりだった」。こうと決めたら譲らない頑固な性格の松本少年は、周囲の反対を受けながらラグビーをするために新居浜高専への進学を希望した。

(第2回へつづく)

<この記事は1999年7月「FORZA EHIME」で掲載されたものです>
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