大相撲において学生相撲出身の力士の活躍は目覚ましい。現在、熱戦を展開している名古屋場所では幕内40人中14人が学生出身、十両を含めた関取は22人にも上がっている。愛媛の期待を一身に背負っている玉春日もまた、中央大学出身の学生力士である。
 中大を選んだのは同じ野村高校出身の先輩が相撲部に在籍していたためだが、そこに至るまでは高校進学の時と同様に紆余曲折があった。
 玉春日の父・法眞は農業を営み、米つくりを中心に酪農なども手掛けていた。日々の暮らしには困らなかったが、6人もの子供を育てるのは決して楽ではなかった。末っ子の玉春日はそんな苦労を肌で感じていただけに「これ以上、迷惑はかけられない」と、学費のかかる進学をやめて家計を支えるため警察官になるつもりだった。

 だが、ここでも周囲の説得にあった。「警察官になるのは、大学を卒業してからでも遅くはない。学費も多少、免除してもらえるようにするから」という言葉で、相撲をあと4年だけ続けてみようと決意した。

 中大OBには昭和40年代前半の柏鵬時代に大物キラーとして活躍した小結・豊国がいたが、それ以降はプロ入りする力士はほとんどいなかった。玉春日もプロに進もうなど考えてもみなかったが、大学3年になって突然転機が訪れた。

 平成4年の11月のことだった。当時の学生相撲は日大の独擅場だったが、全国学生選手権の団体では中大が予想以上の活躍を見せていた。のちに十両まで進んだ武哲山の栗本主将を筆頭にして、破竹に勢いで勝ち進んだ。
 個人タイトルには無縁だった玉春日も副将として奮起。勢いに乗った雑草軍団は決勝では日大を撃破して34年ぶりに日本一の栄冠を手にした。

「あの時は初めて、相撲をやっていてよかったと思った」
 それを境にして稽古への取り組み方も変わった。ひたむきな態度が実を結び、4年になると体重別135キロ未満級で唯一の個人タイトルを獲得。そして、学生最後の大会の全日本選手権ではベスト8に入り、幕下付け出しの資格を得た。

「栗本先輩がプロ入りしたことで自分も意識するようになった。どこまで通用するか試してみようと思った」
 高校時代までお世話になった春日館道場の兵頭氏の勧めで平成5年1月、片男波部屋への入門が決まった。

 玉春日の学生時代の同期には同志社大の土佐ノ海、専修大2年中退の武双山らがいる。土佐ノ海は15タイトルを獲得した「西の横綱」で、武双山は2年でアマ横綱に輝き「東の横綱」だった。2人に比べれば実績は見劣りするが、エリートでなかったからこそ今の玉春日があるといって過言でない。

「入門した時はどこまでやれるか分からなかった。だからこそ、稽古で鍛えていくしかなかった。とにかく必死でした」
 先にプロ入りしていた武双山はすでに幕内にいた。1場所遅れて角界入りした土佐ノ海もわずか4場所で十両昇進。ライバルに追いつこうとひたすらに稽古に励んだ結果、前人未到の大記録を達成することになった。

(第4回につづく)
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<この記事は1999年7月「FORZA EHIME」で掲載されたものです>
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