歓喜は唐突に訪れた。
 延長後半13分、呂比須ワグナーの前線からのチェイスで奪ったボールを中田英寿が右サイドから強引にドリブルで割って入り、一瞬の躊躇もなく左足を振り抜いた。GKアベドザデーが弾く。そのこぼれ球を猛然と走り込んだ岡野雅行がスライディングしながら右足で押し込んだ。
 フランスへの延長Vゴール。第5回スイス大会の予選に参加して依頼、43年目にして初めて掴んだワールドカップの出場切符。かくして10週間にわたって繰り広げられたアジア地区最終予選はハッピーエンドで幕を閉じた。日付のかわった11月17日は、この国にとって歴史的な日となった。
 マレーシア最南部の都市ジョホールバル。この日も午後にスコールが降り、南方特有のまとわりつくような蒸し暑さが街を覆った。
 午後9時、ラーキンスタジアム。コイントスに勝ったイランは陣地を選択した。日本のキックオフにより試合開始。この後、180分にわたって、日本とイランは天国と地獄の通路を交互に行き交うことになる――。
 先制したのは日本だった。前半39分、この日、カズと2トップを組んだFWの中山雅史が中田のスルーパスにタイミングよく飛び出し、左足で慎重に蹴り込んだ。そのわずか2分前にはイラン・マハダビキアの浮き球のシュートが左ゴールポストを叩いたばかりだった。

 しかし、後半に入って舞台は暗転する。アジア最強といわれるイランの攻撃力がいよいよ本領を発揮し始めたのだ。
 まず開始1分、右サイドでマハタビキアが粘り、ペナルティエリア右隅からダエイが左足でシュート。GK川口能活がはじき、それをアジジが右足で蹴り込んだ。
 1対1の同点。強さと高さを兼ね備えた大砲ダエイ。アジア屈指のテクニックとスピードを誇るアジジ。2万人の日本人サポーターで埋まったマレー半島南端のスタジアムはシーンと水を打ったように静まり返った。
 そして14分、日本はついにリードを許す。右サイドからマハダビキアが浮き球のセンタリング。ゴール前に詰めていたダエイが高い打点からヘディングシュートを突き刺した。1対2。流れは完全にイランに傾いた。
 この5分後、岡田武史監督がついに動いた。足の止まったカズと中山に代え、呂比須と城彰二をピッチに送り出したのだ。2トップをそっくり入れ替え、いよいよ勝負に出たのである。
 交代の指示にカズは最初、怪訝な表情を浮かべた。「オレか!?」と自らのユニフォームを引っ張り、腑に落ちないといった表情でピッチを後にした。しかし、シュートどころかチャンスすら満足につくれないエースの限界は、もはや誰の目にも明らかだった。
 2トップの交代は日本に攻撃のリズムをもたらした。縦横無尽に動き回る城にイランのDFは戸惑いを隠し切れず、呂比須も前線からプレスをかけることでボールの獲得を容易にした。
 後半20分過ぎたあたりから、イラン選手の運動量が目に見えて落ちた。暑さと湿度にじわじわとスタミナを奪われ、イーブンボールの争奪に敗退し続けた。試合2日前にマレー下に乗り込んできたツケの支払いは、もう目の前に迫っていた。

 後半31分、左サイドからの中田のクロスに城が絶妙のタイミングで反応した。乾坤一擲のヘディングシュート。定規で測ったような精度の高いクロスを送った中田、それをピンポイントで合わせた城。20歳と22歳の流麗で果敢なコンビネーションは世代交代を印象付けるに充分だった。
 この得点はダエイのパスミスから生まれた。ボランチの山口素弘がカットし、名波浩を経由して左サイドの中田へと渡った。テクニックに溺れるイランは、再三にわたってこの手のミスを犯し続けた。
 逆に言えば、それだけ日本の最終ラインの押し上げ、中盤のプレスが効いていたからに他ならなに。1対1の力関係では明らかにイランを下回った日本だが統率のとれた組織力でそれを挽回した。数的優位な局面がいたるところで現出した。日本サッカーの「あるべき姿」が、そこにはっきり示されていた。
 延長に入り、イランの選手の動きはさらに鈍くなった。日本に中盤をいいように支配され、ゴール前にDFが張りつくケースが多くなった。“ガス欠”気味のイランはカウンターで活路を見出そうとの戦法に切り換えてきた。

 延長突入と同時に岡田監督はジョーカーを切った。俊足の岡野である。疲労の色の濃いイランDF陣は岡野のスピードについてこれないと踏んだのである。
 延長前半13分、その岡野がとんでもないミスを仕出かした。中田の縦パスに抜け出し、GKと1対1になりながらなぜかシュートを打たず、ゴール前で横パスを送ってしまったのである。それをイランはクリア。岡野は茫然と立ち尽くすしかなかった。
 最終予選を通じてたびたび指摘された決定力不足がここでも顔をのぞかせた。それについて、かつて岡田監督は「日本人は判断力が甘い」と語ったが、そうではない。「判断」よりも「決断」の部分に問題があるのだ。もっといえば責任の所在を明確にせず、最終決定を人任せにしたがる日本人の民族的特性が垣間見えた瞬間でもあった。野人(岡野のニックネーム)といえども日本人だったのである。
 しかし、神は岡野を、そして日本人を見捨てなかった。決定的チャンスをはずしたのも岡野なら、それを決めたのも岡野だった。
 Vゴールは岡野の「足」によってもたらされた。彼は頭を抱え込むような失敗にひるむことなく、貪欲にゴールを狙い続けた。そのゴールを演出した中田には、相手GKの左肩負傷を見越し、強いシュートを打てばキャッチできない、弾けばチャンスは生まれる……との冷徹な読みがあった。こうしたたくましさは、今までの日本人にはないものだった。“ドーハの悲劇”から丸4年、我が日の丸イレブンに劇的な変化は見られなかったものの、着実な進歩は充分に見て取ることができた。時はゆるやかにだが、しかし、確実に流れていたのである。

 奇跡はソウルから始まった。6試合を終え、UAEに勝ち点差1の3位。東京での直接対決に引き分け、日本は“自力2位”の可能性を失っていた。残り2試合に連勝しても、UAEも連勝すればフランスに手が届かないのである。もはや日本に失うものは何も残されていなかった。
 しかも敵地である。いくらフランス行きを決めているとはいえ、韓国が日本に慈悲の手を差しのべるとは、とても思えなかった。

 11月1日、チャムシル・スタジアム。パルパル五輪(88年)以来、9年ぶりにゲートをくぐり、隣人の様がわりを目の当たりにした。
 かつては突き刺さるように厳しかった隣人の視線が、この日は漢江の川面に照りつける秋の日差しのようにやさしく感じられた。
 国力の向上が侵略戦争による心の傷を癒したのか、それとも相手が宿敵・日本といえども、フランス行きを決めた今となっては消化試合に過ぎないのか。真っ赤なユニフォームやシャツに身を包んだサポーターたちの応援も、気の抜けたビールとは言わないまでも、唐辛子が舌を刺す時のようなピリッとした切迫感は皆無だった。
 先制点はあっという間だった。前半開始1分、中田の縦パスを受けた名波が左サイドを駆け上がり、絶妙なタイミングで相馬直樹へ。パスを受けた相馬がダイレクトで折り返し、それをニアポストに詰めていた呂比須がスルー気味に流すと、そこには名波が待っていた。
 前半37分、またしても左サイドが赤一色のメインスタンドに沈黙を強いた。左スローインから中田、カズ、を経由したボールを相馬がDFのタックルを見事にかわし、マイナスのラストパスをゴール前へ。最後にさりげなくDFの前に出た呂比須がダイレクトで流し込んだ。
 この日、それまで極度の不振にあえいでいた名波−相馬の左サイドが復活した。自らの持ち味を封じてでも相手の長所を消す3バックシステムに対応しきれなかった彼らが、従来の4バックに戻したことで水を得た魚のようにいきいきと動き始めた。前線から最終ラインまでをコンパクトに保つこのシステムは、ボールにプレスをかけ、タッチする回数を多くする。こうしたせわしない動きが彼らに攻撃のリズムを呼び戻したのである。
「遊び心を持ってやった。相手をバカにしたプレーをしてやろうと思っていた」
 魅力的なコメントを、ひどく真面目な口調で名波が言えば、
「失敗を恐れず、前で勝負してやろうと思った」
 と相馬が続けた。

<この原稿は1998年1月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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