1999年6月1日の開設以来、当サイトでは膨大な量のインタビュー記事、コラムを更新してきました。今回はサイト10周年を記念して1カ月間、過去の傑作や貴重な内容のものをセレクトし、復刻版として毎日お届けしています。記事内容は基本的に当時のままを掲載しており、現在は名称や所属が異なる場合もありますが、ご了承ください。第7弾は読者より復活希望の多かった二宮清純のボクシングコラム「Boxer's Profile」より傑作選をお届けします。
 500余年の歴史を誇るタイの国技ムエタイ。タイ人以外の者で、初めて王座に就いたのがこれから紹介する藤原敏男である。
 この藤原敏男、とにかく強かった。沢村忠がさん然と輝くキック界のスターなら、藤原は筋金入りの格闘家だった。

 ちょうど私が中学生の頃だ。沖縄の星・玉城良光との初代全日本ライト級王座決定戦は、格闘技雑誌が特集を組むほどの話題を集めたが、さしもの玉城も藤原の敵ではなかった。
 なにしろ、師匠が、あの“鬼の黒崎”なのだ。黒崎健時が主催する目白ジムといえば、当時の格闘技ファンにとっては“虎の穴”のような場所であり、その優等生が藤原というわけだった。

 後日、藤原は目白ジム時代の思い出を、こう語ったものだ。
「練習は厳しいなんてもんじゃなかったね。とにかく、単純な練習を8時間くらいびっちりやらされるんだから。一度始めると、いつ終わるかわからない。あと500回とか1000回といったように終わりが分かっていれば歯をくいしばって我慢することもできるんだけど、終わりをいってくれないから、精神的な苦痛までが加わる。それこそ地獄そのものだったですよ。よくウチのジムには、空手の黒帯やケンカ自慢が半分冷やかしにやってきたんです。でも、そういう人間に限って根性がない。朝ロードワークしてると“腹が痛いからトイレ入ってくる”なんて言い出す。で、そのまま寮に帰り、荷物まとめて逃げ出したヤツもいました。いまこんな練習やってたら、日本中のジムや道場から若者がいなくなってしまうでしょうね。それほど厳しい練習だった……」

 昭和52年4月7日に、敵地バンコクのラジャダムナン・スタジアムで当時、同スタジアム系ライト級王者だったチャランポン・ソータイを判定で下した藤原は、同王座への挑戦権を獲得。1年後の53年3月18日、東京・後楽園ホールのリングで新王者のモンサワン・ルークチェンマイに挑戦するチャンスを掴む。この試合はタイ国以外の国で行なわれた世界で初めてのタイトルマッチでもあった。

「ムエタイっていうのはタイの国技だから、今まで外国でタイトルマッチをさせたことないし、これからもさせる気持ちはなかったんだろうけど、ただオレの場合には、ラジャダムナンのチャンピオンにもぶつかるなどして実績もあったからね。向こう(タイ)のランキングにも5位に顔出していたし、タイも特例と認めたんじゃないかな。
 年も33歳になってたのかな。もう2度とないチャンスだと思うと、やる前から意気込みが違いましたよ。その意味では文字通り、全身全霊をぶつけた試合だったと思う。人生を賭けた試合? そうね、そう言えるかもしれないね」

 チャンピオンのモンサワン・ルークチェンマイはタイ人には珍しい身長180センチの長身選手。1ラウンド、肌と肌が触れ合った瞬間、藤原は衝撃を受ける。「こいつは並の強さじゃない」――。

「パッと肌が触れ合った瞬間、本能的に思ったね。これは並じゃないって。それに加えて不気味さもありましたよ。なにしろ背が高くて手足のリーチが長いから、中に飛び込めないんだから。逆につかまったら最後、ヒジとヒザのえじきにされてしまう。向こうの連中というのは、華奢な腕していても、いったん首掴んだら絶対にほどかないんですよ。首を掴んだら最後、相手の動きに合わせて力入れたり抜いたりするから、簡単にはほどけない。モンサワンにもそういう恐さがありましたよ。
 3ラウンドまでは一進一退の攻防。そして、ついに運命の4ラウンドがやってくる。オレは最後まで勝負を捨てたことのない男だからね。最後には必ず勝つんだ、という気持ちを常に忘れないでリングに上がってきた。だから、不思議にヤバイとかやられるといった気持ちはなかったね」

<モンサワンが膝ヒザ蹴りにきたところを、藤原は逆に首をとり巧みにクリンチワーク。もつれ合ったサバ折り状態のまま藤原は全体重を相手に預けながらヒザ蹴りを見舞った。キャンバスに後頭部をしたたかに打ちつけたモンサワンはこれで完全にグロッキー。レフェリーは10カウントを数えるまでもなく藤原のKO勝利を宣した>(『ゴング格闘技』7月号増刊より)

 KOタイム、4ラウンド46秒。ムエタイ王者を打倒した歴史的一瞬でもあった。
「このクラスになると狙ってどうしよう、こうしようとできるもんじゃないからね。もう、本能的なものですよ。倒したのはヒジ。パッと倒れる瞬間、自分の右ヒジをモンサワンに持っていったんですよ。
 ほとんど倒れると同時。レフェリーがストップする瞬間までは(技を出すのも)テクニックのひとつだからね。そのくらいやらないと今度は自分がやられる。
 手応え? モンサワンが倒れた瞬間、人間が死ぬ時みたいにフワッとなりましたよ。やった! もう、それだけですよ。最終目標のムエタイのベルトを獲ったわけだからね。リング上で子供みたいに飛び上がって喜んだはずですよ。うれしかったもんね。
 この試合まで130戦近くやってきたでしょう。20歳から(キックボクシングを)始めて、足かけ14年半やってきたわけだから。このタイトル、結局は3カ月後にとられて100日天下に終わるわけだけど、自分としてはよくやったと思うね。その意味で悔いないですよ」

 昭和53年6月7日、「何としても王座をタイに取り戻さねばならない」と打倒藤原に躍起となったタイ側は、藤原の挑戦者に“切り札”とも言うべきルンピニー系王者、シープレー・ガイソンポップを仕立ててきた。
 場所はバンコク、ラジャダムナン・スタジアム。藤原の初防衛戦である。

「そりゃ、スゴイ騒ぎっぷりでしたよ。スタジアムの正面に行くと、オレとシープレーの姿を形取った25メートルくらいの看板がかかっているんだから。タイの国技を破ったフジワラということで、向こうも歓迎の意を表したんだろうけど、これほど派手な演出もなかったね。ビックリしましたよ(笑)。
 まず、空港に降りた時からパニックだった。新聞記者とかカメラマンのフラッシュの雨あられでなかなか前へ進めない。ついでにフジワラだということで税関のチェックもお構いなし。ちょっと、どこかへ行こうにも“フジワラ! フジワラ!”って子供がくっついてくるんだから(笑)。
 レセプションもスゴかった。向こうではその席上に、ファイトマネーをポーンと積み上げるんです。チャンピオンで60万から100万バーツ、タイじゃ30万バーツもあれば家が一軒建つんですからね。オレのファイトマネーがいくらだったかは忘れてしまったけど、結構な額だったとは思いますよ」

<序盤は得意のパンチを巧みに繰り出した藤原がリード。だが中盤以降、シープレーは鋭角なヒザ蹴りを連打し巻き返しをはかった。最終回、藤原のパンチ、シープレーのヒザ蹴りが交錯する中、終了のゴング! 判定は24 1/2対24で3者シープレー。藤原は無念の王座転落となった>(『ゴング格闘技』)

「向こうの判定は独特で日本のそれとは違うから仕方ないな、という感じだったね。向こうではポイントの高いヒザとかヒジを結構、もらっちゃったでしょう。こっちはローキックとパンチで立ち向かったんだけど、倒せなかった時点で、ある程度(負けは)覚悟したよ。判定じゃ難しいなって。0.5ポイント差? そう言われればそんなもんかって思うより他ないもんね。まぁ、残念ではあったけど、その一方でどこかサバサバした面があったことも事実だよね」

<このコラムは二宮清純「Boxer's Profile」のコーナーで2001年5月に掲載されたものです>
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