新潟県との県境に近い長野県飯山市。
 その日は朝から、火鉢の灰をひっくり返したような大雪が降り続いていた。こんな日に店を開けても、客が来るわけがない。街中で小さなスナックを営む小林ちづ子は迷った挙句、とりあえず店を開けることにした。逆にこんな日だからこそ馴染みの客がフラリと現れるかもしれないと思ったからである。
 今にして思えば、それが虫の報せだった。
 ちょうど仕度に取りかかった頃、店の電話が鳴った。時計を見れば、夕方6時を少し回ったあたりだった。聞き覚えのない若い男の声だった。
「智昭くんが、ちょっと事故に遭ってケガしてしまったんです」
「智昭が? それ、どういうこと?」
「……いや、それは直接、私の口からは……」
 歯切れの悪さが不安を掻きたてた。
 若い男は病院の電話番号と医師の名前だけを事務的に告げると、そそくさと電話を切った。

 すぐに告げられた番号を指で押し、医師を呼び出した。
「今すぐ病院に来られますか?」
 医師は単刀直入に切り出した。
「すぐと言っても、長野ですから……」
「エッ? 東京じゃないんですか?」
「それに先生、こっちは大雪なんですよ。車だって走れるかどうか……」
 窓の外から見える雪は、いよいよ降る激しさを増し、まるで白いベールに覆われているようだった。
「とにかく、すぐに来てください。これから手術をします。今、血圧が下がっている状態なので、上がったらすぐに手術を始めます」

 母ひとり子ひとり。いつもは決まって正月に帰省する智昭が、なぜかこの年だけは飯山に帰ってこなかった。何か目的があるのだろうか……。ちづ子は漠然とそう考えていた。まさか、それがカートのレースに出場するためだったとは。それを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。
 取るものもとりあえず、ちづ子は弟夫妻とともに、すぐに東京に向かった。吹雪の中、弟の運転する乗用車は県境を越え、新潟県の湯沢へと向かった。越後湯沢で新幹線に乗り、東京へ向かう。それがその頃の最短ルートだった。

 ちづ子の回想――。
「新潟もすごい雪でした。前も見えない。でも新幹線に乗り遅れるわけにはいかないので、弟は車を飛ばしに飛ばした。お巡りさんに捕まったら、事情を話して罰金払おう、って。私はもう怖くって怖くって、車に乗っている間、ずっと眼を閉じていました」
 どうにか新幹線に間に合ったものの、胸の動悸は治まらなかった。シートに腰を沈めると、今度は胸騒ぎがした。

 新幹線が越後湯沢の駅を出て、10分もしないうちに車内放送でちづ子の名が呼ばれた。悪寒が背筋を走った。
 ちづ子の心中を察した弟夫婦が連れ立って車内電話が設置されてある場所に向かった。5分たっても10分だっても弟夫婦は帰ってこない。帰って来られない理由でもあるのか……。
 車窓の向こうは白い闇。砂時計の砂のように、時間だけが無慈悲に流れてゆく。夢であってほしい。ただ夢であってほしい……。母は祈った。

 しかし――。
 まるで蝋人形のように顔を白く染めた弟夫婦が通路に立っていた。
「もうダメだってさ……」
 力なく、弟は言った。
「なんでダメなのよ。先生、手術するって言ったじゃない」
「……」
「なぜ黙ってるのよ!」
「……」

 1993年1月20日、午後7時49分。
 元ボクシング日本バンタム級チャンピオン、小林智昭は、永遠に帰らない人となった。
 死因は肺挫傷。
 享年二十八。

「実は、小林智昭君が昨日、事故に遭って、昨日のうちに亡くなりました」
「エッ? 智昭が!? ウソでしょう?」
 1月21日の早朝、私はけたたましい電話のベルで起こされた。
「本当なんです。茨城のカート場で練習中、事故に遭ってそのまま……」
「カート場? なぜ智昭がそんな所にいるんですか? いる必要性がないでしょう?」
「どうもアイツ、レーサーになろうとしていたようなんです。ちょうど大会も間近に迫っていたらしくて……」
「大会? 何の大会ですか? 俺にはさっぱりわからないな」
 そう言って私は電話を切った。

 実際、訳のわからないことばかりだった。レーサー、カート場、大会……。彼はついこの間まで、ボクシングをやっていた男だ。彼の口からはレースのレの字も聴いたことがない。理解に苦しむとはこのことだ。
 私は彼の家に電話をかけた。
 今になって考えると、死んだと告げられた友の家に電話をかけるのもおかしな話なのだが、それしか思い浮かばなかった。

 彼は当時、東京・板橋の十条のアパートに住んでいた。電話に出てきたら、「オマエ、いったいナニ考えてんだ!」と叱りつけてやろうと思っていた。
 受話器の向こうから聞き覚えのある声がした。留守番電話だった。すべて聞き終えぬうちに、私は電話を切った。自分でも呼吸がおかしくなっていく様子が、手にとるようにわかった。
 慌ててもう一度電話をかけた。机の引き出しから急いでテープレコーダーを取り出し、彼の声を録音した。なぜ、そうしたのかはわからない。

 煙草を一服しようと二階から降りてゆくと、妻が朝食の仕度をしていた。
「どうしたの、あなた、顔が真っ青よ」
「いや、あの。そのぉ……智昭が死んだんだよ」
「智昭君が!? そんなこと、あるわけないじゃない。だって、あの人、ついこの間、家に来たばっかりよ。元気そうだったわ」
「だから、病気じゃないんだよ。事故なんだよ。車をぶつけたか、ぶつけられたかしたらしいんだよ」

 私と妻のやりとりの声がやかましかったのか、別室で寝ていた1歳になったばかりの子供が急に泣き出した。
 子供は背中にファスナーのついたオレンジ色のベビー服を着ていた。このベビー服は、つい先日、智昭が家に立ち寄った時、子供にプレゼントしてくれたものだった。
 オレンジ――それは智昭がもっとも好んだ色だった。あの時も、彼はオレンジ色のトランクスを履いていた。不意にあの試合のことが私の脳裏のスクリーンに甦った。

 1987年10月3日。東京・後楽園ホール。
 日本バンタム級タイトルマッチ。
 チャンピオン・高橋ナオト対挑戦者・小林智昭。

 この日、会場に詰めかけたほとんどのファンはチャンピオンの防衛を予想していた。それもKO勝ちを。
 というのも、この日までナオトは12戦全勝(8KO)という素晴らしいレコードを誇り、世界チャンピオンへの最短距離にいる男と言われていた。ミクロのタイミングでカウンターを射抜くスタイリッシュなボクシングは、甘いマスクとも相俟ってガッチリとファンの心を掴み、テレビ局も日本タイトルマッチとしては異例の生中継で彼を売り出しにかかっていた。

 一方の小林智昭は急成長を遂げているとはいえ、アマチュアボクシングの経験もない雑草ファイター。ここまでにすでに3敗を喫している。高校中退後上京、世界チャンピオンを夢見て名門・ヨネクラジムの門を叩いたが、一戦して角海老宝石ジムに移籍している。
「あのジムはエリート重視。僕のようなアマチュア経験のない雑草は、相手にしてもらえなかった」
 後に、智昭はこう語っていた。

 離れて良く、打ち合って良し。戦前の予想は8対2、いや9対1でチャンピオン有利というものだった。それほど、この頃のチャンピオンは充実していた。
 しかし、私は五分五分とまではいかないまでも、4割程度、チャレンジャーにもチャンスがあるのではないか、と見ていた。それはタイトルマッチ前の智昭の仕上がりが抜群に良く、加えて、ビデオでチャンピオンのボクシングを執拗に研究する姿勢に、なみなみならぬ決意を感じたからである。

 智昭のスパーリング・パートナーを務めた畑中清詞は、後にWBC世界ジュニアフェザー級王者になる強打者だが、その畑中が「僕は小林智昭が勝つと思いますよ」と意味ありげに語ったことも、奇跡を裏付ける材料のひとつとなった。
 ともあれ、彼はこの試合に賭けていた。
「高橋君には負けても次がある。僕には、もう次がない」
 試合前に発した一言が。この試合への決意の程を物語っていた。

 この頃、私はとりたてて彼と親しい間柄ではなかった。取材に行って話を聞く程度。ただ「頭のいい選手だな」という印象はあった。
 早口でボソボソとした口調ながらも、返ってくるセリフはどれも核心を突いていた。物静かで控え目。ジムから一歩出れば、その姿はどこにでもいる青年のそれで、とてもボクサーには思えなかった。

「なぜヨネクラを辞めて角海老に入ったの?」
 いつだったかそう聞いたことがある。
「ここは自由でいいんですよ」
 苦笑を浮かべて、智昭は答えた。
「僕って、あれこれ言われるのが嫌いなんですよ。ここは自分の思うようにさせてくれるじゃないですか。それに、ここはアマで名を揚げたようなエリートがいない。みんなが平等なんですよ」
 “エリート”や“平等”という言葉に、彼が名門ジムを飛び出した理由が窺えた。

 JR大塚駅に程近い角海老宝石ジムの窓は、通行人が練習を見られるようにガラス張りになっていた。熱心に練習を覗いている少年がいると、「坊や、ボクシングやってみないか」と中から声がかかった。それくらい開放的なジムだった。
 この頃、ボクシングの軽量級シーンはスターボクサーの出現で活況を呈していた。1986年の新人王組が中心で、高橋ナオトは11戦目で日本バンタム級王者に、畑中清詞は12戦目で日本ジュニアバンタム級王者に就いていた。

 日本王座への挑戦権を得た頃、智昭は日本バンタム級2位にまでランクを上げていたが、ベタ足で泥臭いボクシングを展開する彼の評価は、高くなかった。
 高橋ナオトとの一戦も、チャンピオンサイドにすれば“かませ犬”、すなわち世界戦への一里塚に過ぎなかった。もちろん、そのことは智昭自身も承知だった。だから“物静かで控え目な男”が牙を剥いたのである。

 母・ちづ子は、試合前、息子がこう告げたのをはっきり覚えている。
「みんな、高橋君が強い強いって言うけど、僕は全然、そう思わないんだ。僕はチャンピオンになる自信がある。お正月にチャンピオンベルトを持って飯山に帰ってくるよ。お母さん、約束するよ」

 テレビの生中継に合わせ、ゴングは午後3時に鳴った。後楽園ホールの観衆は2500。立ち見客まで現れた。
 オレンジのトランクスの右端に、赤いグローブの縫い取り。この日のために新調したものだった。

(つづく)

<このコラムは二宮清純「Boxer's Profile」のコーナーで2003年2月に掲載されたものです>
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