1999年6月1日の開設以来、当サイトでは膨大な量のインタビュー記事、コラムを更新してきました。今回はサイト10周年を記念して1カ月間、過去の傑作や貴重な内容のものをセレクトし、復刻版として毎日お届けしています。記事内容は基本的に当時のままを掲載しており、現在は名称や所属が異なる場合もありますが、ご了承ください。第8弾は2004年8月のアテネ五輪から二宮清純の現地レポート傑作選をお届けします。
 魔物なんていない「強ければ勝つ」

「なぁ、康生」。シドニー五輪に出発する数日前のことだ。井上康生は師である山下泰裕に呼び止められた。「オリンピックに魔物なんか棲んじゃいないよ。強ければ勝つ。弱ければ負ける。ただそれだけのことなんだよ」
 その一声で井上康生は胸中にくすぶっていた一抹の不安が全て取り払われた。まるで台風一過の空のようにすがすがしい心境で戦いの日を迎えることができたという。

「終わってみれば先生のおっしゃる通りでした。オリンピックに魔物なんかいない。もし魔物が棲みつくとしたら、それは自分の心の中の弱い部分ということなんでしょう」。IBCのインタビュールーム。千金の笑みを浮かべた金メダリストは胸を張ってそう答えた。
 魔物に脅えるでもなく、魔物と戦うでもなく、魔物の存在すら無視できる自然体の強さを康生は持ち合わせていた。強ければ勝つ、弱ければ負ける。勝つのも自分なら、負けるのも自分。ただ、それだけのことだ。

 今回の日本代表は兵(つわもの)揃いだ。シドニーでは後一歩のところで金メダルを逃した者、表彰台を逃した者が多く、雪辱に燃える。経験値が高く魔物に惑わされたりはしないだろう。金メダルはシドニーの倍の10個。それが勝敗ラインだ。日出ずる国よ、強くあれ!

 「敗者の美学」超えた「勝者の実学」

「オリンピックは参加するだけでは意義がない」。こう言い切ったのは16年前、当時、反日感情の渦巻いていたソウルの空に日の丸を掲げた鈴木大地だ。彼の心には「魔物」ではなく飢えた一匹の「野獣」が棲んでいた。
 男子背泳ぎ100メートル決勝。プールサイドの日の丸は昼下がりの朝顔のようにしなだれていた。午前中の予選でライバルのバーコフ(米国)が世界新記録を出してしまったのだ。タイムの面からも勢いの面からも大地の不利は明らか。神風でも吹かない限り、奇跡は期待できそうになかった。

 しかし、予選でのバーコフの躍動と大地の失速は物語のプロローグに過ぎなかった。四面楚歌の状況に追い込まれた時、初めてその人間の値打ちがわかる。さて彼は何をしたか。神にも祈らず、運にも身を委ねなかった。彼が逆襲の武器としたのは自らの知恵と勇気だった。
 コーチの鈴木陽二と火の出るような激論をかわした。その結果、バサロの距離を伸ばすことを決断する。よりによって世界記録保持者にプレッシャーをかけるという、神をも恐れぬ奇襲を断行したのである。

 その時のメモが手元に残っている。陽二のコメント。「オレたちの狙っているのは金だ。他の色のメダルはいらんだろう?」。それを受けて大地。「いりません。勝負するしかないでしょう」。足もすくむような勝負の分水嶺に立たされながら、彼は自らの手で退路の橋を断ち切ってみせた。「敗者の美学」をこえた「勝者の実学」がそこにあった。

 108年の歳月を経て「平和の祭典」聖地に帰郷

 108年のはるかなる歳月を経て、五輪が聖地に“帰郷”する。“平和の祭典”が輝き続けるのは、逆説的にいえば人々の平和への希求が一向に止まないからだ。今もって世界には飢えもあれば戦争もある。対立もあれば憎悪もある。

 対立を協調に、憎悪を友情に――。束の間の時間であれ、我々は夢を見ることができる。人間の可能性に希望をたくすこともできる。
 4年に1度の濃密な夏――人間がオリンポスの神々に近づく儀式をしかと見届けたい。

 「バイキングの末裔」葬った頼もしき“なでしこイレブン”

 なでしこの花は陽あたりのいい草地に咲くが、ボロスの夕日はつぼみを刺激するには程良い暑さだったのかもしれない。
 胸のすくような勝利だった。世界ランキング4位のスウェーデンを歯牙にもかけなかった。スコアこそ1対0だが、あと2点は獲れていた。内容的には完勝だった。

 前半24分にあげた先制点が決勝点となった。DF磯崎の長い球足のFKをFW大谷がバックヘッドで流し、GKが処理にもたつくところをFW荒川が体勢をくずしながらも押し込んだ。
 GKの怠慢な動きを読み切ったその判断の正確さといい、倒れ込んででも任務を果たすんだといわんばかりの球際の執念といい、あのプレーには荒川のFWとしての資質が凝縮していた。

 「荒川の決勝ゴールにゴンの姿を見た」

 ふと頭をよぎったのがアメリカW杯・アジア地区最終予選、イラン戦での中山雅史のゴールだ。タテに出たパスを振り向きざまに決めた中山は、ボールを小脇に抱えながらセンターサークルに走った。逆転こそならなかったものの、あのゴールが意気消沈していたチームにカツを入れ、死に馬を走らせる原動力となったのである。
 取るべき人が取る。守るべき人が守る。これが強いチームだ。決勝までの長い道中、伏兵が思わぬ活躍をすることもあるだろう。だがそれは、あくまでも“隠し味”でなければならない。
 
 「エーゲ海に現れた倭寇の風林火山」

 なでしこジャパンの真髄はその一糸乱れぬ組織力にある。川にエサを投げ込めば無数のメダカが寄ってくる。なでしこ軍団のプレスはそれを連想させるほどタイトで、網の目が細かい。単騎で殴り込みをかけるバイキングの末裔たちを、次々に生け捕りにして金品ならぬボールを巻き上げた。世が世なら、簀巻(すまき)にして海に放り込んでいる場面だ。エーゲ海に倭寇が出現した。痛快な話だ。

 ボールを奪ってからの展開がこれまた速い。球足の長いパス、短いパスを自在に使い分け、相手の足が止まったと見るや、一気にサイドをチェンジした。
 この戦法、何かに似ている。そう、世にいう「孫子の兵法」だ。その中のひとつに武田信玄が実戦で用いた「風林火山」がある。疾(はや)きこと風のごとし。徐(しず)かなること林のごとし。侵椋すること火のごとし。動かざること山のごとし。

 まさになでしこジャパンの戦法がこれだ。集散は風のごとくスピーディーで、ラインをあげる前の周到さは林の静けさにも通じる。のろしが上がってひとたびクロスが放り込まれるや火となって敵陣を襲い、敵の門番に火槍を浴びせかけた。銃後の守りも万全だ。山のごとき慎重さでバイキングの末裔たちを撃退し続けた。

 「目標はメダルではない。問われるのは色」

 わずか2年でチームをここまで仕上げた上田栄治の手腕には恐れ入る。相手GKの未熟さを突いたところなど、戦術眼の確かさが戦術にインパクトをもたらせ、それが選手たちの自信の源泉になっていることを実感させた。ロマンスグレーの50歳、この男、ただ者ではない。

 E組で1位通過を果たせば、セミファイナルでW杯王者のドイツを避けることができる。スウェーデン戦の中身を振り返れば、目標はメダルではない。問われるのはメダルの色だ。黄金色か、鈍(にび)色……。孫子の兵法にはこうもある。「知り難きこと陰のごとし」。指揮官の引き出しには、珠玉の策がまだいくつも眠っているに違いない。 

(第2回へつづく)

<このコラムは2004年8月に『スポーツニッポン』で掲載後、当サイトで紹介したものです>
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