柔道家にとって天井を見上げることほど屈辱なことはない。しかも同じ日に2度も。視線が行き場を失ってしまうほど王者のプライドは完膚なきまでに打ち砕かれた。これまで世界選手権、五輪合わせ24戦全勝。そのうちの21戦が一本勝ち。大舞台での井上康生の不敗神話は皮肉なことに神話の舞台アテネでピリオドが打たれた。
 消えた「野生」

 敗因をあげればきりがない。体はボロボロの状態だった。右腕には“電気”が走り、左ひざは屈伸するだけで悲鳴を発した。これでは相手をコントロールすることも強く踏みこむこともできない。体が軽い感じがしたのはそのためだ。組み手も欧州勢に研究され尽くしていた。いくら康生が内股の名手だとはいっても、不十分な組み手では威力も半減する。4回戦ではオランダ人に内股を、敗者復活戦ではアゼルバイジャン人に大内刈りを返された。

 さらには日本選手団主将の重圧。この日まで柔道は5つの金メダルを獲っていた。「早く結果を出したい」と逸(はや)る気持ちはなかったか。シドニーでは師である山下泰裕の「五輪に魔物なんか棲んじゃいない。強ければ勝つ、弱ければ負ける。それだけのことだ」の言葉で“無心”になれた。大胆不敵にも表彰台では亡き母の遺影を高々と掲げた。柔道着の内側に遺影をしのばせて入場した。もちろん規則違反だ。しかし、五輪初体験の22歳には「見つからないように工夫したんですが、やっぱり見つかってしまいましたね」と言ってのけるヤンチャさがあった。怖いもの知らずの童心が、彼の柔道に野生の彩りを添えていた。

 美学に生き、美学に殉じた

 だが4年もあれば人はかわる。思想もかわれば哲学もかわる。恋愛観だって微妙にかわる。人生観に至っては言うまでもない。大会前、彼から映画の「ラスト・サムライ」が好きだ、という話を聞いたとき、正直言って嫌な予感がした。端的に言えば、あれはサムライが自らの美学に殉じる悲壮的な映画だ。たとえこの身は滅びても、生きざまだけは美しくありたい、尊くありたい――。自らの魂への忠誠心が美学の根幹をなしている。

 本来、康生は悪いなら悪いなりの柔道ができる男だ。前半にポイントを取り、守りを固めればやすやすと牙城を明け渡すことはない。だが、そうした、いわゆる効率的な柔道を彼は切って捨てた。どこまでも一本にこだわる。それが柔道であり、それを追及し続けている我が身だからこそ誇りが持てるのだ。

 負けたからといって、これまでの道のりが間違っていたわけではない。ただ自らの「美学」を追求して、なおかつ結果を出すには恐ろしいまでの自己練磨と求道(ぐどう)の心が必要になる。彼が分け入ったのは暗がりの獣道(けものみち)。樹海には光も人影もない。ここからどうやって再び頂を極めるのか。アテネでの敗北は北京への長く険しい旅の始まりをも意味している。

 「ドスン」と響いた8年の重み 〜阿武教子〜

 4年は長い。8年ともなれば、なおさらだ。世界選手権で4連覇を飾った阿武も、五輪で負った傷は五輪でしか癒やせない。
 決勝戦。必殺の袖釣り込み腰が決まった瞬間、ドスンという音が響いた。あのドスンは耐え続けた8年の時間の重みではなかったか。あるいは流した涙と汗の重みだったのかもしれない。

 金メダル以外はすべて「敗北」。女子といえども日本柔道の掟(おきて)から逃れられるものではない。曇りのち曇りのち晴れ。しかもとびっきりの快晴。人懐こい丸顔がアテネの太陽のように輝いていた。

 「フォア・ザ・フラッグ」 〜長嶋ジャパンの“もう1つの使命”〜

 アテネ市内には3本の地下鉄が走っている。野球場のあるヘリニコに行くには、最南端にあたる2号線の終着駅アギョス・ディミトゥリアスで降り、そこからバスに乗り継いで約20分。歩道橋を歩くと、まるで群青色の絵の具をパレットいっぱいに塗り込んだようなエーゲ海が目に飛び込んでくる。しばし立ち止まり、目の疲れを癒す。すると心も洗われる。

 数日前から野球場に行く地下鉄の中で、あるいはバスの中で小さな変化が現れ始めた。野球帽をかぶる地元の少年や青年たちが徐々にではあるが増え始めた。目立つのはヤンキースやドジャースの帽子。関係者によれば両球団のスカウトが自軍の帽子を持ち込み、無料で配っているのだそうだ。きっとこれも近い将来の欧州戦略をにらんでのマーケティングの一環なのだろう。MLBはさすがにしたたかだ。既得権益の確保と時代遅れの参入障壁にしがみつく日本プロ野球に欲しいのは、こうした“攻めの姿勢”である。

 異国に来てしばらくたつと無性にみそ汁が飲みたくなるように、野球を見ると心が落ち着く。そしてあらためて思う。野球はなんて素敵なスポーツなんだろうと…。主観を捨て、客観視することで、その競技の実相が見えてくる。

 他の五輪競技と比べた場合のベースボールが持つ決定的なアドバンテージ。あらためて気付いたのだが、それは観客への試合球の提供である。ヘリニコのスタジアムは2つともフェンスが低い。バックネットの面積も小さい。そのため、ファウルボールがバーゲンセールのようにスタンドに飛び込んでくるのだ。少年から老人までが素手でファウルボールを奪い合う。ダイレクトでキャッチしようものならスタンディング・オベーション。勇気を称賛する無数の言語が飛び交う。観客席にヒーローが現れるスポーツなんて、他にはない。雲ひとつない無邪気な青空が開放感に拍車をかける。

 ルールとボールで広がる夢

 ただひとつ残念なのは、ギリシャをはじめヨーロッパの人々には少々ルールが難解らしいということ。タッチアップの意味が分からない。投手のけん制にいたってはチンプンカンプン。私のつけているスコアブックを指しながら、これは何だ、あれは何だと聞いてくるのだが、どうもうまく伝わらない。眉間(みけん)にしわを寄せて考え込む様は古代ギリシャの哲学者のようだ。この国の人々は深刻な表情をつくるのが実にうまい。もうそれだけで十分、得をしている。

 吹き出しそうなこともあった。日本対台湾戦。六回無死一、二塁のチャンスで谷がバントを試みた。例によってギリシャの青年が「あれは何だ?」と聞いてきた。「サクリファイス・バント。自らを犠牲にしてランナーを進めるんだ」。失敗。強行に転じて併殺打。このギリシャ人、日系企業に勤めたこともあり、打者の女房が柔道で金メダルを獲った谷亮子であることを知っていた。それもあってかスパイスのきいたジョークを口にした。「あれじゃ“効果”にもならないな」

 晴れ渡った空。乾燥した空気。似ているのはアメリカでも最も野球が盛んなカリフォルニアの気候だ。ルールさえ分かれば、そして少々の用具があれば、すぐにでも「プレーボール」は可能である。エーゲ海リーグ、やがては地中海リーグへ。白球の夢は限りなく広がる。長嶋ジャパンの戦いは「フォア・ザ・フラッグ」のみならず「フォア・ザ・ベースボール」の使命をも担っている。

 後味の悪い敗戦 〜届かなかった父の抗議〜

 娘は父に助けを求めた。父は声を限りに叫んだ。こんな不条理が許されるのかと――。
 準決勝で中国の新鋭・王旭に足元をすくわれた。娘にとっても父にとっても納得のいかない負け方だった。電光掲示板のミスで頭の中が混乱したまま試合が終了した。「おかしいじゃないか」「抗議しろ」。父はスタンドから身を乗り出して絶叫した。だが無情にもジャッジには届かない。後味の悪さだけが館内にわだかまった。

 浜口京子と父・平吾。長い間、この父娘を見てきた。彼女と最初に会ったのは、まだ小学生の頃だ。母・初枝さん似のかわいいお嬢さんだった。父親は言わずと知れたプロレスラー。小柄ながら闘志を前面に表すファイトで一時代を築いた。
 母は浅草で小料理屋を営んでいた。宵になると元プロレスラーや元力士がたくさん集まり、豪快な酒宴は夜更けまで続いた。「おかぁさーん」。ベソをかきながら京子はよく2階から降りてきた。「いつまでも泣いてるんじゃないのよ」。厳しくもやさしい下町の“肝っ玉かあさん”だった。

 京子が格闘技の道に入るきっかけは13歳で始めたボディービルだった。平吾は水泳で挫折した娘を「なにかで自信をつけさせてやろう」と考えた。それが自らが青年時代に打ち込んでいたボディービルだった。「ステージに上がり、ライトを浴び、拍手までもらう。こんな体験は初めてでした」。京子は目を輝かせて、そう語ったものだ。

 ボディービルの次はレスリング。多感な10代。「もうお父さんは来ないでよ。皆一人で頑張っているんだから」と父親を遠ざけたこともある。「京子がねぇ、オレに来ないでって言うんですよ」。リング上で一度もひるんだ姿を見せたことのないファイターが、この時ばかりは珍しく弱音を吐いた。

 女子レスリングは冬の時代が長く続いた。待てども待てども五輪種目に昇格しない。あれは4年前の夏のことだ。父と娘は北海道の稚内に来ていた。どこへ行ってもシドニー五輪の話題で持ち切り。京子は見向きもされない。「走ろうか、京子」。最先端の船着き場を涙をこらえながら父娘で走った。その時だ。利尻や礼文行きの連絡船の汽笛が鳴った。目に涙を浮かべて娘は言った。「お父さん、人生って悲しいね」。父はわざと大声を張り上げた。「バカヤロー!こんなもの苦労じゃない。五輪で金メダルを獲ればすべて報われるんだ」

 「金」より尊い絆 〜ハッピーエンドは北京で〜

 ジムの裏側には浅草寺がある。父は境内でよく黙想する。「オレたちには仏様がついているんです」。平吾はよくそう語る。だが大願は成就しなかった。アテネには神も仏もいなかった。
 しかし、と思う。娘のために、たとえ世界を敵に回しても身を震わせながら怒りを発することのできる父親がこの国にいるか。娘とともに涙がかれるまで泣ける父親がこの国にいるか。その頑固一徹の父親に向かって「よしなさい。負けたって私たち家族は十分、幸せなのよ」とたしなめられる女房がこの国にいるか。「泣き言いってんじゃないわよ。皆のために銅メダルを獲ってきなさい」と心を鬼にして傷心の娘をしかり飛ばす母親がこの国にいるか。家族の絆(きずな)は金メダルよりも尊し――。ハッピーエンドは北京に持ちこされた。

 世界に誇る女子格闘技王国 〜金メダル全15個中既に7個〜

 完全制覇こそならなかったものの、女子レスリング4階級すべてでメダルを獲った。金メダルは2つ。頂点にこそ立てなかったが72キロ級の浜口京子も48キロ級の伊調千春も実力的には及ばなかったわけではない。
 五輪における女子格闘技は柔道、レスリング、テコンドーの3つしかない。最高で15個の金メダルが期待できる。日本は既に7個の金と、銀2個、銅1個を獲得した。世界に冠たる“女子格闘技王国”なのだ。

 これにはいくつかの原因が考えられる。もともと武道の下地があったこと。既に男子が実績をつくっていたこと。そして有能なコーチ陣。たくましきアマゾネス(ギリシャ神話の女戦士)たちがメダルラッシュの原動力であることを忘れてはならない。

(最終回へつづく)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら

<このコラムは2004年8月に『スポーツニッポン』で掲載後、当サイトでも紹介したものです>
◎バックナンバーはこちらから