輪ゴムで巻いたチョンマゲが畳の上で躍動した。フットワークが切れている証拠だ。決勝の相手はフランスのジョシネ。後半、ちょっとよろける場面があったが、左足首の負傷をまるで感じさせない。開始早々、大外刈りで効果を奪い、優位に立った。終盤、ジョシネの捨て身の反撃に遭ったが、それを難なくしのぎ、残り15秒では鮮やかな大内刈りで決定的な技ありを奪った。
 悪夢の涙あったから黄金の涙がある 〜谷亮子〜

 日本女子柔道史上初の五輪連覇。彼女が涙ぐんでいる姿をスタンドで見ていて、こちらも涙ぐみそうになった。初めて彼女の試合を見たのは90年の福岡国際女子。彼女はまだ15歳の中学3年生だった。
 あれから14年の歳月が流れ、今の彼女にはさながらオーラが漂っているように見える。五輪出場に赤信号をともしたケガさえも、さらに高みを目指す上での糧にすぎないのだ。

「この14年間、本当にいろいろな経験をさせてもらいました。それがすべて私の実になっている。だから4年前(シドニー五輪)の私と今の私が戦ったら、きっと今の私の方が強いでしょうね」
 その言葉通りだった。名人を超え、達人の領域に達しているのかもしれない。

 しかし、ここまで来るのに彼女はおびただしい涙を流してきた。「今だから言えるんですけどね、悔しくて悔しくて朝起きると、枕がぐっしょりぬれていたことだってあるんですよ」神戸市内のレストランで。谷亮子がいつになくしんみりした口調で私にそう語ったのは、アテネ五輪出場が決まった直後だった。

 後悔なき日々

 あれは今から8年前のことだ。アトランタ五輪決勝。田村亮子は北朝鮮のケー・スンヒに足元をすくわれた。畳の上で足を滑らせての不運な敗北だった。その夜、彼女は涙がかれるまで泣いた。次の日の朝になっても、前日の出来事が信じられなかった。

「私は何か悪い夢でも見ているのではないか……」
 恐る恐るメダルの入った箱を取り出した。彼女がひそかに期待していたのはまばゆいばかりの輝きだった。しかし――。目に入ったのは鈍い光だった。

「もう2度とこんな悔しさだけは味わいたくない」
 唇をかんで彼女は自らに誓った。
「1日1日を後悔しないように生きよう」

 よく彼女をして「選ばれし者」と言う。さにあらず。彼女は自らのハガネのような意志と唇をかみ切るほどの強い決意で人生を変えて見せたのである。その生きざまの尊さは黄金色の輝きの比ではない。

 玉砕なきラストサムライ 〜野村忠宏〜

 谷亮子が「達人」なら野村忠宏には「武人」といったイメージがある。前人未到の3連覇。メディアではレディーファーストよろしく、ミセスに主役を譲ったが、日本勢が振るわなかったアトランタ、シドニーで日の丸を根本から支えたのがこの寡黙な男だった。

 準決勝ではモンゴルのツァガンバータルを大内刈りで叩きつけた。開始わずか23秒。電光石火の早業。隣の畳では、野村への挑戦権をかけた死闘が延々と繰り広げられていた。

 控室に引き揚げる際、野村は表情を消し、挑戦者決定戦を睥睨(へいげい)するように通り過ぎた。これぞ王者の立ち居振る舞い。その威厳に満ちた姿は肖像画に残しておきたくなるほど美しく、同時に背筋が冷たくなるほどすさまじかった。

 ラストサムライ。だが、彼は玉砕しない。どこまでも勝ち続ける。

 更地に宮殿建てた「無血革命」 〜復活金! 体操ニッポン〜

 深夜のオリンピック・インドアホールが、さながら歌劇場と化した。最後の「鉄棒」で日本人選手がピタリと着地を決めるたびにスタンドから「ブラボー!」の声が上がった。驚嘆と称賛。米田9.787、鹿島9.825、冨田9.850。団体総合では28年ぶりにニッポンが表彰台の真ん中に戻ってきた。

 長い長い漆黒のトンネルを抜け出し、まばゆいばかりの光を浴びた。私が表彰台を正視できなかったのは、この強過ぎる光のせいばかりではない。会場に詰めかけたアテネの人々のみならず、本命視されながら脆くも崩れた中国チームの応援団からも祝福されている姿を目のあたりにして、年甲斐もなく胸が詰まってしまったのだ。

 特段、神に愛されたわけでもなければ運に恵まれたわけでもない。実力で掴み取った。地力でもぎ取った。「ヨーロッパでは日本にいい点数は出ない」と危惧する向きもあったが、アウェーごときにうろたえるヤワな男たちではなかった。重力に逆らい、形而(けいじ)下の原理に背き続けるという、ある意味、神をも恐れぬ作業を、6人は顔色ひとつかえずに2時間半、黙々とやり通した。こんなタフでクレバーな青年たちの集団が、近年、この国に存在しただろうか。

 体操ニッポン復活――。言葉にすれば1行で足りる。だが、内実はそんなリーズナブルなものではない。私が深夜のアテネ郊外で目のあたりにしたのは、異国の人々をも驚嘆せしめた、しなやかでたくましい日本人青年たちによる「無血革命」だった。あたかも更地に宮殿を建てるように、自らの手で新時代を切り拓(ひら)いてみせたのだ。そこに価値がある。

 再び深夜の物語。ローテーション5が終了して、首位ルーマニア144.422、2位日本144.359、3位アメリカ144.297。最後の鉄棒の出来いかんによっては金メダルから銅メダルまである究極のバトル。ここまで来た以上、あくまでも狙いは黄金色。鈍(にび)色や赤茶色では喜びも半減する。

 斬新な発想と臆さぬ若者

 まずルーマニアが脱落した。あろうことか手を滑らせたセラリウが鉄棒から落下した。小刻みに震えるルーマニア人の口元を見て、ここは“戦場”なのだと思い知った。ミスは死を意味する。彼は重圧に潰された。

 続くアメリカは3人ともきれいに着地を決めたが難度が低く、高得点に結びつかない。金メダルに挑戦するのではなく、確実にメダルを獲りにいき、あわよくば・・・とのシナリオが見てとれた。着地に失敗すると最大で0.3ポイントも失う。手堅く演技をまとめて日本のミスを待ちたいところだが、先に述べたように、そんなことで脈拍を速めるような選手は日本にはいなかった。

 ニッポン体操陣は60年ローマ大会から5連覇するなど王国の異名を欲しいままにしてきた。72年ミュンヘン大会では塚原直也の父・光男がムーンサルトを披露し、世界中を震撼させた。しかし、その余熱はとうに消え、余韻がかすかに残るだけ。それを示唆するように塚原の名前がコールされるたびにギリシャの老夫婦が「トゥカハーラ」と叫び、直也を指さして何事かささやき合っていた。

 しかし、目の前のこの6人の青年たちは、かつての栄光を知らない。伝統を引き継ごうにも、引き継ぐだけのノウハウは残っていなかった。蓄えもとうに底をついていた。一度、失った栄光を取り戻すには、過去の成功体験にとらわれない斬新な発想と臆することのない若者の出現が前提条件となる。それを彼ら6人は見事に証明した。表彰式が終了しても歌劇場から「ブラボー!」の声が消えることはなかった。

(第3回へつづく)
>>第1回はこちら

<このコラムは2004年8月に『スポーツニッポン』で掲載後、当サイトでも紹介したものです>
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