友近としろうは、このたび民主党への入党を決意しました。小沢一郎幹事長から要請があったのは10月7日。無所属で活動している他の3名の議員とともに、「より安定政権を目指すために、民主党に力を貸してもらいたい」との言葉をいただきました。

 2年3カ月前、国会の議席を与えていただいた時、僕は無所属でした。しかし、無所属のままではどうしても国会での発言機会は限られてしまいます。そのため当選直後から、国会では民主党会派に所属し、自分の専門であるスポーツ政策はもちろん、さまざまな分野に対するみなさんの要望を政府に届けてきました。
 それでも無所属である以上、僕に割り振られる国会での質問時間などは、あくまでも民主党の厚意によるものです。どこにも属さない分、自由に意見表明できる一方で、大きな組織の後ろ盾がないため、その考えを実行に移すには限界があります。今回、民主党中心の政権が誕生したことで、僕は与党議員となりました。応援していただくみなさんのためにも、民主党入りすることで、より責任を持って政策づくりに携わりたい。これが大きな入党の動機です。

 もちろん最終決断をする前に、多くのみなさんと相談をしました。中には「党派に属さない形で当選しながら、途中でそれを覆すのは、政治不信につながる」との指摘もいただきました。選挙の際に支援していただいた社民党では「了承はできないが、理解はできる」との反応でした。

 しかし、大部分のみなさんには「地元や国会での活動がスムーズにできるのあれば、入党しても構わない」と賛意を示していただきました。最初から民主党会派に所属していたこともあり、国会内では「民主党の議員より民主党らしい」と言ってくださる方もいました。日頃から「民主党の友近」とも言われてきましたから、こちらが思うほど周囲のみなさんは違和感がなかったのかもしれません。

 僕が民主党に抱いているイメージは「勉強熱心」。失礼ながら国会に来るまで、議員がこれほどまで精力的に活動しているとは思いませんでした。朝は意見交換会に出て、各政策について官僚や有識者の話を聞けば、夜も議員同士の会合で議論を戦わせる。1年生議員も先輩議員も関係なく、よりよい社会へのアイデアを出し合える雰囲気には好感を持てました。

 当時は野党だったこともありますが、議員たち自ら法案を作成し、国会にどんどん提出していました。これは「官僚のつくったものに、自民党がラベルを貼っただけ」と揶揄された過去の政権の法案とは明らかに性質が異なるものです。こういった日々の勉強の結晶がマニフェストとなり、今回の政権交代に結び付いたのだと思っています。

 少なくとも野党時代からの民主党議員は、それぞれ官僚に1から10まで頼らなくとも政策を立案できる能力を備えています。ですから「政治主導」は単なるスローガンではなく、実現可能な目標なのです。これまでの与党政治家は、それぞれの分野で“族議員”として官僚に働きかけるだけで、実質的に国を動かしていたのは霞が関でした。当然、民主党政権になっても、官僚のみなさんには政策づくりのための実態を伺ったり、アイデアを出してもらうことは必要です。しかし、方向性を決め、決定権を握るのは、あくまでも政治家。それで間違った政策を進めれば、選挙で厳しい審判が下されます。このほうが責任の所在がはっきりするのではないでしょうか。

 政権交代から1カ月、「政治主導」による政策転換はあちこちで起こっています。八ツ場ダムの建設中止や羽田ハブ空港化構想、母子加算の復活、前政権による補正予算の約3兆円を執行停止……。大きな花火がどんどん打ち上げられました。その一方で「政治主導」の理念を推し進めるあまり、政策づくりのプロセスが大臣、副大臣ら政務三役のみで進められてしまうとの新たな問題も浮上してきています。与党議員でさえ、各省庁の大臣や副大臣の発表で初めて決定を知ることが多いのです。「政策立案に加われないなら、単なる採決要員じゃないか」。そんなフラストレーションが党内にはたまり始めています。

 もちろん僕たち一般の与党議員は各省庁の政策会議に出席し、意見を述べることはできます。ところが先の総選挙で議員数が大幅に増えたこともあり、限られた時間の中でひとりひとりが自分の考えや地元からの要望を訴えるのは限界があります。いきおい政府側の返答も手短になり、議論を深められません。また、実際に政権を担う上で、各省庁が抱えている重要案件は多岐に渡っています。国土交通省ならダムに道路、厚生労働省なら子ども手当に年金と、大きな政策会議では話が散漫になっている印象も否めません。

 個人的には、各政策を個別のテーマに分けて少人数で話し合う場の必要性を感じています。たとえば文部科学の分野であれば、学校教育、科学技術、スポーツなどの小委員会をつくり、そこでの議論を政策会議に反映し、これを踏まえて政府が立法化する。さらに国会で議論を深め、政策として実行する。こういった流れができることが理想です。

 民主党は政権交代前から「政府、与党の一元化」をうたっています。従来の自民党では党内の各部会が力を持ち、政府の方針に口を出すやり方が幅を利かせてきました。それが各部会に“族議員”を生み出し、政・官・業の癒着構造につながったことは紛れもない事実です。確かに僕の考えている小委員会方式では、自民党の部会と表面上は変わらないと言われるかもしれません。ただし、先に述べたように、民主党議員は野党時代に自力で政策を立案できる能力を培ってきました。たとえ小委員会ができたからといって、官僚や業界におんぶに抱っこの族議員は生まれないと僕はみています。何より自民党政権の弊害を間近で見てきた人間として「族議員にはならない」という自覚が各議員に強くあるはずです。

 今回、与党になったことで、僕たちはもっと地域の声を拾いあげ、政策に反映させることが求められています。この点、民主党は地方組織が弱く、なかなかみなさんが声を届ける場所がないのが現状です。これからは一党員として、そういった環境整備にも力を尽くしていきたいと考えています。

 僕とともに他の3議員も入党したため、参議院の民主党の勢力は112名と増えました。心境としては、これまで民主党会派として背番号なしのユニホームを着ていたのが、正式に「112」番を背中につけていただいた感じです。ただ、背番号112はプロ野球なら、まだ育成選手。主力として国に貢献するためには、早く2ケタや1ケタの番号にならなくてはいけません。

 たとえばスポーツ政策では、熱心だった鈴木寛さんが文部科学副大臣に就任したことで、党内議論をリードできる人材が不在になっています。この役割は、すぐにでも自分が果たしていける部分でしょう。入党はひとつの区切りですが、終わりではありません。ここからが新たなキックオフと捉え、民主党というクラブのストライカーになれるよう、国会の赤じゅうたんのピッチを今まで以上に動き回るつもりです。そして今回の決断が正しかったことを認めていただくため、みなさんに喜んでいただける“ゴール”をしっかり決めたいと思っています。


友近聡朗(ともちか・としろう):参議院議員
 1975年4月24日、愛媛県出身。南宇和高時代は全国高校サッカー選手権大会で2年時にベスト8入りを果たす。早稲田大学を卒業後、単身ドイツへ。SVGゲッティンゲンなどでプレーし、地域に密着したサッカークラブに感動する。帰国後は愛媛FCの中心選手として活躍し、06年にはJ2昇格を達成した。この年限りで現役を引退。愛称はズーパー(独語でsuperの意)。07年夏の参院選愛媛選挙区に出馬し、初当選を果たした。
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