横浜の新監督に就任した尾花高夫は今でも玄界灘に面した唐津への墓参りを欠かさない。そこにはホークス時代、苦楽をともにした藤井将雄が眠っている。
 99年、尾花は当時の監督・王貞治の要請でホークスの1軍投手コーチに就任した。投手陣を集めるなり、尾花は言った。「このメンバーで優勝しよう」。反応は鈍かった。ただひとり食いついてきたのが藤井だった。後日、周りに誰もいないのを確認した藤井は尾花の真意を探るように水を向けた。「尾花さん、このチームに来た時に優勝できると言いましたよね。本当にそう思っていますか?」。尾花はその質問を待っていた。「できる。オレを信じてくれ。その代わりオレの言うことを聞いてくれ」。その場で尾花はクイックや牽制時の首の動かし方など投手がやるべき最低限の義務を執拗に説いた。黙って聞いていた藤井は深くうなづき、答えた。「わかりました。やります。それで優勝できるのなら……」

「こいつを投手陣のリーダーにしよう」。藤井と何度か会話を交わしているうちに尾花には確信が生まれた。誰に対してもはっきりとモノを言う。にもかかわらず性格に陰日向がなく憎まれない。そこを尾花は買ったのだ。「当時のホークスは実績のある工藤公康と他の投手とでは差があり過ぎた。投手陣をまとめるとすれば、工藤にもはっきりモノが言える選手じゃなければ務まらない。それができるのは藤井だけでした。それで僕は彼にこう頼んだ。“このチームで投手をまとめられるのはオマエしかいない。オマエがオレの代わりに言ってくれ”と……」

 この年、ホークスは九州に移転して初優勝を果たす。藤井はセットアッパーとして大車輪の活躍をし、最多ホールドのタイトルまで獲得した。「あれは日本シリーズの前ですね。変な咳をしていたので、“オマエ、調べてもらえよ”と言ったのは…」。翌年10月13日、肺ガンのため永眠。まだ31歳だった。

「アイツの墓前にはいつ行ってもスポーツ紙が置いてある。誰かが届けるんでしょうね」。墓前にはこう報告するつもりだ。「将雄、監督になっちゃったよ。見ていてくれな」と。2年連続最下位からの出発。「横浜に藤井将雄はいますか?」と問うと、「探しますよ」と指揮官は即答した。投手陣のリーダー探し。そこがチーム改革の一丁目一番地となる。

<この原稿は09年11月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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